ラサへの歩き方

監督 張楊(チャン・ヤン)
出演 ニマ ヤンベル ツェリン ツェワン

チベット仏教徒の聖地巡礼。マニ車を回しながら先導する人の後ろで、10歩ぐらい歩いては五体投地、手板という手用のサンダルのような物をはめて、革のエプロンのような物を着けて、バタンと道路に伏せ、額をつけ、起き上がる。そしてまた、少し歩いてはバタン。それで2400kmを進む!妊婦もいる。子どももいる。後ろから荷物を積んだトラクターがついてくる。
現代の舗装された道路、時々大型のトラックも走ってくる同じ道路の上で。

妊婦だよ、何考えてるんだ、と、思うけれど、そんな中で産気づき、その時は病院へ運び、出産し、生まれた赤ちゃんはトラクターの上、お母さんはやっぱり五体投地!で何ほどでも無い景色で進んで行く。

日本人としては、お風呂は?などと思うのだが、日常からそうそうシャワーなど浴びていないであろうことが、髪の毛バサバサ具合からもわかることで。

スマホで家族に電話するシーンがある。そりゃあまさしく今の時代に行われていることなんだなあと思う。

ドキュメンタリーかと思うと、監督がプロットを作り、それにふさわしい出演者を探し、ロケハンし、チベット自治区マルカム県の小さな村で出演者全員を見つけ出したのだという。
チベット語の会話だがトラックには中国語が書いてあり、道路標示も漢字だから、中国語もできるのだろうと思っていたが、高等教育を受けるか中国語圏で仕事をした者しか中国語を理解しないらしい。

聖地ラサへ1200km、そこから最終目的地聖山カイラスへ1200km、行き交う同じ目的を持つ旅人たちとも当たり前のように助け合いながら、ごく普通のこととして進んで行く。時に歌い、時に踊り。
高い山は雪、その中でも五体投地。亡くなる人もいる。聖地で死ぬことをありがたいことと受け入れ、布でくるまれた遺体に向かって3人の坊さんたちがお経をあげる。遺体はそのまま。空には鳥が…鳥葬か。

文化の違い、信仰の違い、というのはそう簡単に納得できるものではない、としみじみ思うが、まず知ることはできる。

チャン・ヤン監督には、かつて私がとても好きだった映画『スパイシー・ラブスープ』や『こころの湯』などの作品がある。

ダライ・ラマの立場はどうなっているのかとチラッと思ったりする次第でもありました。

 

ヨーヨー・マと旅するシルクロード

監督 モーガン・ネヴィル
出演 ヨーヨー・マ ジョン・ウイリアムズ タン・ドゥン

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チェロ奏者ヨーヨー・マが、『音の世界遺産』を発信するため2000年にシルクロードアンサンブルを立ち上げる。アラブや中国や様々な国の人々による様々な楽器が、西洋楽器と融合した素晴らしい音楽を作り出す。
元々、和楽器やアジアの楽器と西洋音楽が融合した音が好きな私には、このドキュメンタリー映画の初めのあたりからもうこれ好き!でありました。

ヨーヨー・マ=馬友友のご両親がフランスに渡って、そこで生まれ、7歳でアメリカへ、という育ちだったことを初めて知った。子どもの頃にあのケネディ大統領の前で演奏しているなんてことも。
舞台袖で、彼を紹介する司会者の言葉に反応する姿、チャーミングで豊かな人柄がにじむ。

ケマンチェという楽器を弾くイランの男性、琵琶(ピパ)を弾く中国人女性、スペインのバグパイプを演奏する女性、シリア人男性、尺八を演奏する梅崎康二郎は西洋の地が混じった顔立ちだと思ったらお母さんがデンマーク人だって。そのほか様々。
それぞれ複雑なバックグラウンドがある。シリアやイランの政治情勢、不幸な理不尽な事態である祖国から逃れて今がある人達。
アメリカ育ちのヨーヨー・マの、中国に対する思いとか。アイデンティティの確認というものか。

祖国は敵対していようとも、音楽は見事に架け橋になる。

私個人は、サン・サーンスの『白鳥』の演奏で、前に黒人少年がうずくまっていて、ダンスが始まることがわかる、けど「瀕死の白鳥」をイメージするじゃありませんか、でも始まるのはストリート系のコンテンポラリーダンス?それをもっとちゃんと見せてほしかったなあ。

今年前半のベスト1かも、と思ったが、クーリンチエ少年殺人事件の立場はどうなる?と、悩むところでありますのさ。いい映画に出会う時間は至福なり。DVD欲しいです。

 

 

THE NET 網に囚われた男

監督 キム・ギドク
出演 リュ・スンボム イ・ウォングン キム・ヨンミン

北朝鮮の漁師が漁に出る。エンジンが故障、韓国に流れ着く。
韓国の警察は、スパイではないかと疑い、執拗な取り調べを続ける。一人の取調官が異常なほどの執着を持って責める。
漁師に好意的な若い男もいる。彼と一緒に街に出される。そうするとスパイの行動が伺われるだろうというので。

街中で、売春婦の女に会い、しゃれた町にも暗部があるらしいことを知る。

まあいろいろありまして、疑いは晴れて帰国となる。が、そこで待っていたものは…。

私が韓国の映画監督として最初に覚えたのがキム・ギドクである。いつも、理不尽に切ない世界の人間が描かれる。映画館で見る機会がある時は、なんとか時間を作って観ようと思う監督の一人。

39席の小さな映画館とは言え、観客3人だった。テーマが地味だし、拷問のシーンがあるし、隣とは言えよその国の話だが、共謀罪だかなんだかバリバリ決まっていく頭の悪い政治家しかいないのかこのニホンには、という状態では、明日は我が身なお話とも思えますぞ。

お嬢さん

http://ojosan.jp/
監督 パク・チャヌク
出演 キム・ミニ キム・テリ ハ・ジョンウ

『オールドボーイ』や『親切なクムジャさん』のパク・チャヌク監督作品なのだから一筋縄ではいかない、エグイのは承知で観る。
原作はサラ・ウォーターズのゴシックロマンなミステリー『荊の城』。それを日本統治時代の韓国を舞台に、換骨奪胎。

韓国人俳優たちが日本人を演じるので、言葉の韓国訛り、なんか変な日本髪、気にはなるが、まあそれがエロい表現にはちょっとしたクッションにもなる。おかしみが混ざる。

詐欺師の手先としてお屋敷のお嬢さんの御付きになる女。

実はそのお嬢さんは、そのお屋敷の主人である伯爵によって色情小説の読み手として育てられていた。

親しくなる二人。あるたくらみをする。

凝ったストーリーは原作のまま。味付けは全く別物だが。
精神病院へ。そこで一つひっくり返る。でも確かこの先がある、と、小説の記憶を手繰る私。

あちらから見た話、こちらから見た話、視点が変わると全く違ってくる、どんでん返しの連続。

日本でロマンポルノの名のもとに意欲的な作品が多く作られていた時代を思い出す。二人の女優の肢体がまことに美しい。今の日本の若い女優で、ここまですっぱりと裸をさらすことができる女優は?

好きか?というと別に私はこの監督のファンでは無いのだけれど、一時沈んでいた感のあった韓国映画のこのところの勢いは凄い。

原題はアガシ、お嬢さんの意味だが、英語タイトルはお付きとか侍女の意味だった。

 

百日告別

監督 トム・リン林書宇
出演 カリーナ・ラム林嘉欣 シー・チンハン石錦航

交通事故が起こる。ピアノ教師の妻とそのお腹の子を失った男。結婚の通知を出すところだった婚約者を亡くした女。
合同葬儀から7日置きの合同の法事で、顔見知りになる。

突然の喪失に、思いの行き場もない男、女。それぞれに、自死ということを思う。

男は妻のピアノの生徒たちに月謝を返すために生徒たちの家を訪ねる。女は、二人で新婚旅行に行くはずだった沖縄へ、一人旅する。沖縄グルメの旅の予定を細かく立てていたのだ。決して豪華な食事ではない麺類などや、路地の奥の小さな珈琲店。

たまたま出会った沖縄のおばあと、言葉が通じないながらに束の間心が通ったようなシーンが良い。

台湾の仏教では、初七日にはその亡くなった人が訪ねてくると言われているらしい。三七日(みなのか)には何だったか、日本とよく似ているがお経であろうと思うがみんなが歌うように聞き覚えの無いメロディに乗せている。49日で一区切り、百箇日でその死を嘆き哭くことを終わる、というのは日本でも同じ。

カリーナ・ラムは結婚出産で数年映画を離れていて、久しぶりに見たけれど変わらない。アラフォーのはずなのに。主に香港で活動していたが、元々台湾出身、日本の血も入っているクォーターなのだそうだ。
ロックバンド五月天(メイデイ)のメンバーで石頭(シートウ)と呼ばれている石錦航は、今までもいくつかの映画で見ている。
二人がとても良い。

格別のドラマに発展することもなく、百日の法要で終わっていく物語。サブタイトルにZiniaの文字があり、ジニア百日草は台湾でも百日草と言うのね、と思う。

家族や恋人を亡くした経験の無い人には、この淡々とした描き方がわからないかもしれない。私には、しみじみととてもいい作品でした。たった1週間しか上映しないのかあ、ガーデンズシネマ。

戦争は女の顔をしていない

著者 スヴェトラーナ・アレクシェービッチ
岩波現代文庫

2015年度のノーベル文学賞受賞、ベラルーシ出身の作家の第一作。
旧ソ連、第二次世界大戦中、ドイツ軍に攻め込まれた後、女性でも軍の仕事に就くことができた。本来は18歳以上なら。女性だからと言って、衛生指導員と言ったものだけでなく、狙撃兵や高射砲隊長など。

簡単に聞き出せる話では無い。
一人一人のエピソードが重すぎて、読み終えるまでに時間がかかった。

祖国を守るために戦線に出ることを熱望した若い女性たち。殺戮の中へ。女性の生理を持ちながら。

そして、戦争には勝つ。けれども、男達の中で戦争に参加した女たちへの差別。多くは語られていないけれど、性の提供も少なからずあったのだ。軍にいたことが知られると軽蔑の眼が向けられる。
障害者として残りの人生を送る人も。父親がパルチザンで、怪しまれないために小さな少女であった娘を使い、過酷な帰途に病気になり、回復しなかった。

捕虜になるということは、日本でだけが恥とするものかと思っていた。ソ連でも、捕虜になるとスパイの嫌疑をかけられ、死ななかったことを責められる。

今の日本の政治のトップにいる人達、ミゾユウ(未曾有)・デンデン(云々)・ビンセン(便宜)などちょっと本を読んでいる中学生なら読める漢字を読めない政治家さんたちは、まずこんな本を読んだことも無いだろう。みんな、少し本を読もうね、カッコいい戦争なんてこの世に存在しないことをわかるぐらいに。

ララランド

監督 デイミアン・チャゼル
出演 ライアン・ゴズリング エマ・ストーン

王道ど真ん中!のハリウッドミュージカル。上映終了間際になってやっと見に行きました。
プロローグのハイウェイの渋滞でみんなが踊りだすシーン、なんかこんな感じ見覚えある、そのシーンを、最後になってあああそこよく見ておくんだった、と思う。ので、DVDほかで今から観る人はきっちり観察しておいてね。

オーディションを受けまくっている女優の卵と売れないジャズミュージシャンが出会う。王道の中の王道、芸能界物。

ミュージカル映画やミュージカル仕立てのアニメなどを全く見ていない人にとって、この映画はまあ普通のよくあるボーイミーツガール物、ちょっとひねってあるけど、ぐらいの感じかもしれない。まあ私もちょっとそういう感想で途中まで見ていたのですが。

たくさんミュージカルを見ている人は、もうすでにこの映画を観たことだろうけど、うっかり見てなかったら是非どうぞ!残念なことに私は「ロシュフォールの恋人たち」を見ていない ので(ぼんやり眺めたぐらい)、初めのほうのシーンでその相似に気付かなかった。今時ジャズとかタップダンスとかクラシカルなダンスシーンがいろいろ出てくるのは、「雨に歌えば」とか、そういう時代のミュージカルへのオマージュ。ミュージカル好きな人には、あ、このシーン!と、いくつも発見があって思い切り楽しめる、という作り。

ジャズって言っても、音楽的にそんなに?と思っていたのだが、実はダンスも歌もそれ自体は凄くうまくはないって。だって過去の素晴らしいダンサーたちへのオマージュなんだから技術のすばらしさを見たかったら本家のミュージカルをどうぞ!みたいな感じかな。

ちょっとほろ苦い、まことにうまくできた作品です。

 

 

エゴン・シーレ死と乙女

http://egonschiele-movie.com/
監督・脚本 ディーター・ベルナー
出演 ノア・サーベトラ マレシ・リーグナー フェレリエ・ペヒナー

20世紀初頭、オーストリア・ウィーンで活動し、若くして亡くなった画家、エゴン・シーレ。
性器もあらわな裸体画、決して肉感的というわけではない、骨格が見えるような裸体、性交や死を思わせる捩じれたポーズ。かつての私はその絵が好きだった。いつのことだったか、東京での展覧会を見たことがある。

今の、老年に一歩踏み込んだ年齢の私の眼にはどう映るのか、危惧もありつつ。
美形すぎるけれど、ヘアスタイルが若いシーレに似せてあるからか雰囲気はこんな感じだったのかな、と思わせるシーレ役のノア・サーベトラ。モデル出身だという。まあオーストリアの俳優ってほとんど知らないよね、クリムトから紹介されたモデル、 ヴァリ役の女優フェレリエ・ペヒナーが、なんだか見覚えがあるような誰かに似ているような気がする、のだが気がするだけか。いい女優さんだと思う。私がこの役柄に最も共感を覚えるからか。
こういう裸体画モデルというのは、その時代、まあ今で言うならAV女優みたいな感覚なのだろうか。初めは妹をモデルに描いていたし、もっと年若い娘を描いて幼児性愛者の嫌疑をかけられたりもする。その後、長くパートナーでもあったヴァリを捨てて、良家の娘と結婚、しかもその娘の姉とも肉体関係があったようだし、ヴァリとの関係もそのまま続ることを望もうという画家。

才能というのは生まれ持ったものだろうし才能を生まれ持つというのは身の内に有り余る毒のようなものを持ちそれを吐き出さずにいられないということだろうだからそんなやつに普通をもとめたらいけない、ものだろうけれどどいつもこいつも才能のあるやつってものは!

と、思ってしまうさ。ベッドに入っていざ、という瞬間にそのポーズのまま、と言われてスケッチされてしまう。モデルの立場なら良い、妻にしてみればその結果が絵画作品として世に出ることは不愉快なことさ。だけどアーティストと結婚するってそういうことさ。

シーレの作品は評価が上がってくるが、第一次世界大戦勃発、従軍看護婦になったヴァリは猩紅熱で死に、大流行したスペイン風邪によって夫婦二人とも無くなる。その時シーレ28歳。

私がかつて大きな展覧会で観たことがあるせいか、スキャンダラスな雰囲気の絵画はそんなに出てこなかった気がする。そしてあんな不自然なポーズをとらされるモデルはしんどいことだろう。

とにかく凡庸な人間に生まれたことをありがたく思うものである。

コクソン哭声

http://kokuson.com/index.html
監督 ナ・ホンジン
出演 クァク・ドウォン ファン・ジョンミン 國村隼

怖すぎて笑うぜ。なんか評判いいことだけ記憶にあって、内容はほとんど知らずに見たら、怖いぜよ。なんだよ小学生ぐらいの女の子のうまさはよ。
韓国の田舎の村、陰惨な殺人事件が起こる。突然変異のように異様な者と化した家族の一人によって血にまみれる、そういう事件が続く。

山奥に日本人が住んでいる。その男に関する異様な話が伝わる。
日本人を演じるのは國村隼。かつて香港映画ですぐ死ぬ役で数回見かけたが、その後も時々外国映画に出ているが、ああこんな役が彼の代表作になるか。すごいよ。韓国の映画祭で助演男優賞となんだかもう一つ賞を取ったって。

韓国でしか作られないような、土着な、今時マジで祈祷師か!と思うものなのだが。

最後まで見て、も、なんだかあまりのことにうまく全体が理解できていない、あ、あそういうことだったのか、と、しばしののちいろいろつながる。
とは言え、それが正解?何?と思わされるような。

ナ・ホンジン監督作品を今まで知らなかったので、今後気を付けます。

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

監督 楊徳昌エドワード・ヤン
出演 張震 リサ・ヤン 張國柱 金燕玲 王啓讃 柯宇綸

1991年台湾作品。1961年台湾で起こった中学生による同級生女子殺人事件を元に映画化したという。188分版と297分版があり、配給元の倒産により、長く再上映やDVD化できない状態だった。
20年ぐらい前、2本組みビデオテープと言う時代に私が観たのは188分バージョンだっただろうか。かつて衝撃を受けた作品なのにまあ見事にその人間関係が呑み込めなくて、観るべき年齢の制限がある作品かなあと思ったわー途中まで。

まず台湾の近代史を知らない人にはわかりにくい映画だろうな。1945年夏まで日本領だった台湾だから、この映画の設定1961年にはまだまだ日本家屋が残っている。映画館でも1980年ごろまで最初に台湾国歌が流れたのだそうだ。コンサートの前に国家が流れる。直立してそれを聞く。中華民国が中華人民共和国にとって代わるつもりでいるから常に戦闘態勢を整えている。元々台湾で生まれ育った人間と、1945年以降に台湾に移住した外省人と呼ばれる人間が、まだまだはっきりと対立していた時代。

けれどもラジオからプレスリーが流れる。ジーンズが流行る。

その頃の台湾の学校がどんなシステムだったのかよくわからないが、この映画の中では成績によってランク分けされ、成績が一定レベルに無いと、夜間中学に入るということになり、そこには素行のよろしくない生徒がいた、と言うことのようだ。中学生の年齢も幅があるように見えたのだが。日本で言う中高が一緒になっているのかも。男女は別クラス。

夜間中学に入った小四は、外省人の子。不良グループの子と親しくなっているが、普通の少年である。不良グループのボスの彼女だと噂される女の子に、淡い恋をするようになる。

不良グループの対立。
学生の不良グループ、と言う感じでは無いのだこれが。道路を軍の車が走り、銃や刀が身近にある時代、ほぼヤクザと言いたい姿。

不良ボスの彼女小明、この子が!実際、とっくにアメリカに移住していたリサ・ヤンをなぜか見つけた監督が、両親を説き伏せて出演させたのだそうだが、実年齢は高校生ぐらいだと言ったってこのファム・ファタールぶり!この一作しか出ていないはずだが、なんということ。

小四と呼ばれているが(4番目の子、ぐらいの意味)、役名も張震、この映画の中の父親役が実際の父で、兄役も実際の兄。そして張震は少しは演技経験があったらしいが、この映画がほぼデビュー作のようなもの、なのに、すでにその容姿も演技も、出来上がっているではないか。

リトルプレスリー(小猫王)と呼ばれるボーイソプラノの子のエピソードと、柯宇綸が出てた、と言うことぐらいしか覚えていなかった我が記憶力の風前の灯ぶりであり、誰の名前がそれなんだか、誰と誰が仲間なんだか敵なんだか、途中まで理解が追い付かなかったが、それでも、ああやっぱりすごい映画でしたよ。私がかつて見たものはもう少し少年と少女にピントが合っていた気がするので、やはり3時間バージョンだったのでしょう。

早く亡くなったエドワード・ヤン監督の没後10年目の今年、4Kデジタルリマスター版が公開されたことは誠に喜ばしいことでありました。