出版社: 講談社 (2007/5/15)
内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)
「私はいかにしてここに存在するようになったのか」という自分の存在根拠を追い求めた立花隆は「生命」とは何か、「私」とは何か、「臨死体験」とはどういった現象かを追求し、生と死の境界点を探して漂流する。死のプロセスを知ることにより、彼の考えはどう変化したのか。10人の碩学との対話が明らかにする。
立花隆さんの本を、わりと好きで読んでいます。
以前読んだ『21世紀知の挑戦』の中で立花隆さんは次のように語っています。
「私は自分の天職は、難しいことをやさしく語ることにあると思っているが、そういうことができるのも、恥ずかしい過去をいっぱい持ちながら、さらに恥をかくのをものともせず、徹底的に無知をさらけだしながら質問するからである。そして、書くときは、かつての無知なる自分にもわかるようにやさしく語ろうとするからである。」
時には、周囲の顰蹙を買うような言動もあり、バッシングされることも多い方です。私も彼の女性蔑視的発言には思わず「なんですと!」と片膝が立ちました。しかし、それでも、立花隆さんには、世間の目や口を恐れず、知的欲求の赴くまま「人間探求」を続けて欲しいと願っています。ま、私が願わなくても、彼は世間にひるむことの無い方であろうし、そこのところが好きなのですが。
ところで、人の死に「心臓死」以外に「脳死」という新しい死の判定が生まれ、その後ドナーカードが発行されました。自分がもし脳死状態になったら、臓器提供をします、あるいはしたくありません、という臓器提供意思表示カード。
私も死後に誰かの役にたつならば、少しはマシな人生の終わり方に違いないと思い、カードが発行されてすぐ郵便局で手に入れ、この10年あまり携帯してきました。
しかし、今年7月臓器移植法の改正があり、本人の意思表明が無くても家族が同意すれば、脳死患者から臓器を取り出し移植することが可能になりました。
この法改正をきっかけに、私は「脳死」と「臓器移植」について再度しっかり考えてみようと、その視点でこの本を読み始めました。
「脳死」とはどういうものか。「脳死」の判定はどうやるのか。死後の臓器を移植することが、そのまま移植された人の幸せに繋がることなのか。なぜ法改正が必要になったのか。こういった疑問をちゃんと検討したうえで「提供する・しない」の意思表示をしたいと思っています。
「死後の体」については、宗教や民族、文化、加えて個人的理念による違いなどから、それに対する思いもその扱いもさまざまであることに驚かされます。
中でも一番驚いたのは、「いまの人間の葬り方は間違っている」と主張する人(生物学者なのかな?)が、「人間が死んだあと、その死体を焼くのはもったいない、焼けば公害は起きるしエネルギーも使う。これはエコロジーに反する。いちばんいいエコロジカルな人間の葬り方は死体から堆肥(コンポスト)をつくることだ」という考えのもと、コンポスト葬(堆肥葬)を提唱し、具体的な技術開発のための実験(動物を使って)を始めたという話です。
具体的な技術というのは、死体を切り刻んで、堆肥の発酵槽に入れて、いい堆肥を作る。想像すると頭がクラッとするホラーなシーンですが、人間が自然と融合して人類の食糧供給に役にたつ、究極のリサイクルシステムというわけですね。