生活居住圏も生活パターンも全然重なることのない人と、予期せぬ場所でばったり出会って、驚くことがたまにあります。
そんな時、「あの店をあと1分出るのが遅かったら、あるいは早かったら、決して出会うことはなかったのだ」などと思うと不思議な気持ちになりますよね。BGMにはあの曲が流れてきそうです。
~あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
僕らは いつまでも 見知らぬ二人のまま~
昨日の夕方がそんな日でした。と言っても偶然出会ったのは親戚の女の子。「ラブストーリーは突然に」は流れてこなかったけれど、やっぱり不思議だな、偶然ってやつは、と思わずにはいられません。
人との出会いは、考えてみるまでも無く、偶然のなせるものです。あの時、思い切って会社を辞めなければ、出会うことのなかった人、あの駅で乗り換えなければ、会うこともなかった人、、、、、、
自分の力の及ばないところで用意されている出会いの積み重ねで人生は形成されていくのだと、つくづく思います。
そういえば「出会う」がキーワードの、好きな詩があったっけ、と思い出して古いノートを引っ張り出してみると、飯島耕一さんの「探す」という詩を書き写してありました。改めて読んでみると、「出会う」というよりは「はぐれてしまった」詩のようですが、好きな詩なので思い出したついでに紹介します。
「探 す」
飯島 耕一
おまえの探している場所に
僕はいないだろう。
僕の探している場所に
おまえはいないだろう。この広い空間で
まちがいなく出会うためには
一つしか途はない。
その途についてすでにおまえは考え始めている。
これは、出会った二人の愛がはぐれてしまった詩なのか、それとも人生の中ではぐれてしまった自分自身を探しているのか。短い詩というのは、思わせぶりです。
この前私も、読む時の自分の境遇、というか年齢というか、などで随分印象が変わってしまう詩があるなあ、と実感することがありました。若い頃は「心優しい詩」と感じた詩が、今じゃ「余計なお世話の詩」に思えたり。年齢と共に人間が悪くなっていくのかしら?
石垣りんさんの詩に、待つものは来ないだろう 来ないものを誰が待とう と言いながら 来ないゆえに待っている というようなフレーズがあったのを反射的に思い出した、のだけど(正確な記憶ではありません)、これも待っているのは人(男)なのか全く違うものなのか、実はわからない、読んだ人の境遇で受け取り方は違うよね。