『第32回 2023 宮崎国際現代彫刻・空港展』のお知らせ

2023 6/4(日)- 6/18(日)

会場:宮崎ブーゲンビリア空港 1階 オアシス広場

第32回 宮崎国際現代彫刻・空港展は、コロナ禍に休止を余儀なくされたようですが、昨年から再開。
まだコロナ禍の影響があって、今年も国内作家のみの参加となっているようです。

今年は以下37名の作家が出品されます。
当サイトでご紹介しています通畠 義信さんの過去作品については、『鉄のオブジェ・通畠義信』ページを、是非ご覧いただきたいです。

《宮 崎》大野 匠・奥村 羊一・上口 将生・田中 等・田村 将太・満木 攻 一・山田 忠範
《鹿児島》通畠 義信・八田 隆・宮薗 広幸・ますみつ 三知子・吉永 ゆかり
《長 崎》藤崎 宏治
《福 岡》前原 ヨシノブ
《徳 島》居上 真人
《鳥 取》永江 靖幸
《岡 山》伊丹 修・尾崎 公彦・片岡 幸夫・金盛 秀貞・小林 照尚
《奈 良》井上 龍彦・高垣 リミ
《岐 阜》浅川 洋行
《愛 知》尾崎 慎・真下 賢一
《福 井》坂本 太郎
《埼 玉》田中 毅
《千 葉》遠藤 研二
《東 京》竹花 哲・林 宏・藤田 政利
《群 馬》明田 一久
《福 島》湯川 隆
《新 潟》霜鳥 健二
《北海道》長澤 裕子・渡部 洋平


言葉について書かれた2冊の本を読みました。

『今日拾った言葉たち』武田砂鉄
2022年/発行:暮しの手帖社

『うまれることば、しぬことば』酒井順子/2022年/発行:集英社

ふと耳にした言葉が、何だか気になるなあって思うこと、日常よくありますよね。
それが、「いい言葉だな」「うまい言い方だな」と心にグッとくるいい感じの言葉であれば、すぐに誰かに話したくなります。
「なーんか引っかかる」と、ちょっと不快に感じる言葉や言い回しだと、ただモヤモヤした気分だけが残ったりします。

例えば、以前、若手議員さんが「イクメン男子」アピールするのを聞いて、男子は子育てを手伝うだけで褒められてニュースになるのか、と子育てを終えた私でもイマイチ不快の念を禁じ得ないでいました。
そんな時、ハライチの岩井勇気さんの言葉にグッときました。

「自分の子どもを育ててイクメンて言うな!」

これはバラエティ番組で岩井勇気さんが吐くように言い放った言葉。
いや、ホントその通りです。
イクメンアピールなんかしてないで、ガチで協同で家事育児やって欲しいものです。

とは言え、「イクメン男子」というキャッチーな言葉が生まれたからこそ、男性が家事育児に参加することがトレンドになったのも事実。
新しく生まれた言葉が人の意識や世の中の価値観を変化させ、その意識や価値観がさらに若い世代に受け継がれていけば、そのうち当たり前のこととして定着するかもしれません。その頃には自分のことをわざわざイクメンなどと称する男性もいなくなっているでしょう。

さて、今回読んだ2冊の本はどちらも「言葉」をとても大切にしている人が書いています。

『今日拾った言葉たち』

武田砂鉄さんの『今日拾った言葉たち』は『暮らしの手帖』に2016年春~2022年夏に連載されていたものをまとめ直したものです。著者が本や新聞やテレビ、ラジオ、街中の声を聴き、気になった言葉を拾い上げ、その言葉について自身の考えを書き添えています。

幅広いカテゴリーから言葉を拾っているので、様々な人たちの見解に触れることができます。グッとくる言葉もあれば、著者と同じ気持ちで憤慨する言葉もあります。
拾った言葉たちに添えられた武田砂鉄さんの文章からは、当たり前の暮しを守りたいという生活者としての目線が感じられ、ブレない批判精神が感じられます。そこが好きです。

武田砂鉄さんは毎週金曜日22:00 から 23:30、『武田砂鉄のプレ金ナイト【TBSラジオ】』というラジオ番組をYouTubeでも配信しています。砂鉄さんが今会いたいと思っている人を招くゲストトークがメインです。いろんな分野の方たちが登場し、毎回興味深く楽しめる私のお気に入り番組です。

『うまれることば、しぬことば』

酒井順子さんの『うまれることば、しぬことば』も武田砂鉄さんのラジオ番組で知りました。

酒井順子さんと言えば20年ほど前、『負け犬の遠吠え』という作品が話題になり、大論争を巻き起こし、流行語大賞にも選ばれ一つの「負け犬ブーム」を作ったエッセイスト、という程度に知ってはいましたが、作品を読むのは本書が初めてです。

『うまれることば、しぬことば』には、たぶん誰しも一度は気になったに違いないが深く考えないうちにいつのまにか馴染んでしまって気にならなくなった、そんな言葉が取り上げられているように思います。
私も「ああ!そうだった!これ、気になっていたのだった!」と思い起こされる言葉がいくつもありました。それに、本当は気にすべきだったのに気が付かなかった言葉もあってハッとさせられました。
何故この言葉が気になったのか?それをきっちり言語化して読み解いてくれる本です。

『アシタノカレッジ(※現在は『武田砂鉄のプレ金ナイト【TBSラジオ】』』ゲスト酒井順子さん

ついでと言ってはなんですが、最近武田砂鉄さんのラジオ番組にゲスト出演した水野太貴さんの『ゆる言語ラジオ』を紹介させてください。
言語学オタクと言語学素人のお二人によるゆるいお喋りが楽しい。時にはあいみょんの歌詞を熱く語り合い、時には言語を通して「国民を上手に搾取する方法」まで学べる?エンタメ寄りのチャンネルです。一つの動画が30分から50分ほど。割りと長めなところも聴きごたえがあって気に入ってます。

「2023 猫展 平面と立体」の案内状が届きました

2.11(土)-3.6(月)11:00-18:00

休館日:2/15・3/1(水)

於:ギャラリー白樺

「猫展」の案内状が届きました。
しばらく郵便受けを開けていなかったので、ちょっと発見が遅れてしまいました。
郵便受けにはチラシやフリーペーパーがいっぱい溜まっていて、A4サイズの紙の間に挟まって、あうやく見逃すところでした。

今年も猫の日がやってきますね。
59人のアーティストが創り出す多彩な猫たちが楽しめる展覧会です。

「おいしいごはんが食べられますように/高瀬 隼子」もやもやが残ったので読み返してみました

「おいしいご飯がたべられますように」

著者:高瀬 隼子
発行日:2,022年3月
発行:講談社

第167回芥川龍之介賞受賞

どちらかというと普段、文学ジャンルの本は読まないのですが、おもしろいという評判を聞きアマゾンで試し読みをしました。

「一日一粒で全部の栄養と必要なカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。それを飲むだけで健康的に生きられて、食事は嗜好品としてだけ残る。酒や煙草みたいに、食べたい人だけが食べればいいってものになる」
という文章に共感して購入ボタンをクリックしました。

私も子供の頃、ずっと思っていました。ご飯を食べずに生きられたらどんなに楽だろうと。
食事を楽しむことができない子供でした。だから主人公の二谷が、おいしく食べることを世間から押し付けられていると感じる気持ち、私もよく知っている。勝手に同類意識を持って物語を読み進めました。

しかし、なんだろう。この小説。とっても読みやすい文体なのだけど、読むほどにもやもやしてきます。

主要な登場人物は職場の同僚、二谷、芦川さん、押尾さんの男女3人。
二谷と押尾さんの内面や、ふたりが芦川さんのことをどう思っているか、ということは随所に書かれていますが、芦川さんの内面はいっさい書かれていません。
芦川さんは他者の目や口を通して描かれるだけの女性です。それがこの物語にどことなく不穏な居心地の悪さを与えています。

芦川さんは、男性目線と女性目線と仕事と食べることを通して、多様な要素を詰め合わせて作られた女性。芦川さんのことをどう思うかは読む人によってそれぞれですが、彼女の心の内は分からないので、何を考えているのか読者が勝手に推測することになる。そういうところも、もやもやさせられる一因かもしれません。

最初、二谷にも押尾さんにも他の登場人物の誰にもあまり感情移入できず、この職場の空気も嫌だなあと。まあでも現実、職場ってこんなもんだし、何だかイヤな気持ちにさせる物語だなと思いました。
「おいしいごはんが食べられますように」というタイトルだって、食べることが面倒くさいとか思っている二谷にとっては、押しつけがましい呪いの言葉にも聞こえそう。そう思いながら本を閉じました。

だけど、それだけではないような。何か読み落としているような。消化されない感じが残り、後日読み返し、言葉を拾い直したりして考えていくと、登場人物への印象も変わり、そんなイヤな気持ちにさせる物語ではなかったと思えました。
心に刺さる言葉がいくつもあり、さらっと読んで捨ててしまってはもったいない小説だと思いました。

ネタバレになるのであまり具体的なことは書きませんが、
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と言った押尾さん。私は押尾さんへの印象が一番変わりました。悪い方からいい方へ。
そして「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」と言う。このセリフにぐっと来ました。結末を知っているとちょっと悲しく響く言葉ですが、それでも押尾さんには幸せな時間が確かにあったのだと思えて、それはとても良かったなあ、、、と。

人は生きるためには食べなければならない。大方の人は食べるために働かなければならない。
食べる、働く、食べる、働く、、、延々と続くその循環は楽なものじゃないです。
そんな日々の中で、「ごはんが、おいしい」と思えるとしたら、それはきっと幸せなことに違いない。たとえ束の間でも。独りであっても。

まあ、でも、二谷が「芦川さんと食べるごはんは、おいしい」と思う日がいつか来るのかどうか。それは誰にも分からないことだけど。

『いつかたこぶねになる日/小津夜景』たこぶねの母の生き方

「漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日」

  • 著者:小津夜景
      (おずやけい)
  • 発行日:2020年11月
  • 発行:素粒社

著者 小津夜景さんは1973年生まれの俳人。フランスに移り住んで20年余りになるそうです。
本書は著者の日々の暮らしや想いを綴る31編からなるエッセイ。それに日本や中国の詩人たちの漢詩と著者自身によるその翻訳を添えたものです。

南フランスの、海が近くにある暮らし。素朴で繊細でそれでいてタフな生き方が感じられる文章と、歴史の中に眠る詩人たちが詠む漢詩とが不思議と調和するエッセイで、美しさを感じる、丁寧に読みたくなる一冊です。

エッセイの1編目が本の表題にもなっている「いつかたこぶねになる日」です。
たこぶねとは何か?私は全く知らなかったので、鳥羽水族館のYouTubeを見てみました。

タコって大概へんてこりんな形をしている生物ですが、タコブネはさらにへんてこりんで可愛い!
Wikipediaによると

タコブネは、主として海洋の表層で生活する。メスは第一腕から分泌する物質で卵を保護するために殻をつくるのに対し、オスは殻をつくらない。生成される殻はオウムガイやアンモナイトに類似したものであるが、外套膜からではなく特殊化した腕から分泌されるものであるため、これらとは相同ではなく構造も異なる。

成長したメスは、7ないし8センチメートル前後になる。オスはその20分の1ほどの大きさにしかならない。

オスは8本の足のほかに交接腕(「ペニス足」)を有し、交接腕には精嚢が格納されている。交尾は、オスの交接腕がメスの体内に挿入されたのち切断されるかたちでおこなわれ、受精はメスの体内でおこなわれる。メスは貝殻の内側に卵を房状に産みつけ、新鮮な海水を送り込むなどしてこれを保護する。

Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%8D)

たこぶねの生態はかなり独特ですね。メスがオスの20倍の大きさというのも驚きです。人間のサイズに変換して想像すると、結構おぞましい光景です。
それに交尾したあとオスはどうなってしまうの?というところも気になります。そこを詳しく紹介しているダイビングのショップブログを見つけましたので、興味のある方は読んでみてください。

 「交尾後は大事なペニスを切る 誰も知らないタコブネの真実」Trevallies Ocean : https://trevally.jp/2020/01/28/takobune/

タコブネのオスは体長3~4㎜ほどなので、あまり見つけられることがないらしい。そして交尾のあと、おそらくメスに食べられてその一生を終えているらしい。人間目線で見るととても気の毒なオスです。

とは言うものの本書ではメスだけにフォーカスして読んでみます。
著者はアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』を引用して次のように紹介しています。

(たこぶねの)貝は実際は、子供のためのゆりかごであって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。
(略)
半透明で、ギリシャ柱のように美しい溝が幾筋か付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った船も同様に軽くて、未知の海に向かっていつでも出帆することができる。

「いつかたこぶねになる日」p12

このタコブネの母に、著者はご自身の母親の言葉を重ねています。

「未知の世界に漕ぎ出せば、そりゃあ死ぬかもしれないけれど、でも自由を知ることができるのよ、あなたが死んでもおかあさんはがまんするから、遠慮なく好きなところに行きなさい」と幾度となく言われたと言う。

著者の母親世代は、現代以上に女性が自分の好きな道を選択できない不自由な時代だったのだと思うと、母親の言葉に胸が詰まります。そしてタコブネの子供たちも大海原に放り出されるように泳ぎ出て、それからどんな困難が待ち受けていることか、、、、

エッセイを読みながら、私の目の前には深みのある青色の海が広がっていて、美しい殻を脱ぎ捨て身軽になったタコブネの母が、さらに深い海に潜って孤独で自由な生活を始める、という動画が勝手に出来上がっていて、それは私にはとても美しい映像でした。

でも現実は、どうなのだろう?
タコのメスというのは卵が孵ったら死んでしまうものらしいから、タコブネのメスもオスと同じように、子孫を残したところで役目が終わったとばかりに死んでしまうものかもしれません。
それでもタコブネの母は大海原で、短い余生を自由に暮らしていると想像したい。
タコにとっては人間がつくった「自由」という概念など全くどうだっていい話とは思うけど。
人間は生きている限り「自由」を求め続け、ときには命さえ懸ける生き物なのだから。

エッセイの1編目から面白くて、早く次を読みたいという気持ちになりました。
でも、春からまた外に出て働きだしたため、思うように時間が使えなくなり、読み始めて5か月以上経っているのに、まだ全部は読み終わっていません。

昨日は病院の待合室で21番目のエッセイを読みました。
タイトルは「紙ヒコーキの乗り方」。

紙ヒコーキを作って河川敷に飛ばしに行く友人夫婦の話から始まって、紙ヒコーキ愛好家の存在、発砲スチロール紙ヒコーキの原材料のこと、そして芸術家ハリー・スミスが拾った紙ヒコーキをコレクションするのは何故なのか?という疑問に話は飛び、そこからポール・ゴーギャンの有名な作品《我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》に思いが及び、最後は良寛の《僕はどこからきたのか》という漢詩に着地する。

紙ヒコーキから展開する話の広さ・深さに惹きこまれました。

      《僕はどこからきたのか》
                       良寛
僕はどこから来て
どこへ去ってゆくのか
ひとり草庵の窓辺にすわって
じっと静かに思いをめぐらしてみる
思いをめぐらすも始まりはわからず
まして終わりはもっとわからない
いまここだってまたそうで
移ろうすべてはからっぽなのだ
からっぽの中につかのま僕はいて
なおかつ存在によいもわるいもない
ちっぽけな自分をからっぽにゆだね
風の吹くままに生きてゆこう

それにしても、紙ヒコーキを飛ばしに河川敷に出かけてゆく夫婦っていいなあ、って心から思いました。
夫が生きていたら早速提案してみたい遊びです。
物を作ることには手を抜かない性分の人だったからきっと紙ヒコーキとは言え真剣に作って遊んでくれたんじゃないか?って思う、、、今となっては勝手に思うしかできないことだけど。