「もしもし、運命の人ですか。」穂村 弘

mosimosi出版社: メディアファクトリー (2010/12/21)

(内容紹介Amazon.co.jp)
黙々と働く昼も、ひとりで菓子パンをかじる夜も、考えるのは恋のこと。あのときああ言っていたら……今度はこうしよう……延々とシミュレートし続けた果てに、〈私の天使〉は現れるのか? 人気歌人による恋愛エッセイ集が、待望の文庫化。解説は、『臨死!!江古田ちゃん』の漫画家・瀧波ユカリ。

穂村弘さんといえば、『世界音痴』『現実入門~ ほんとにみんなこんなことを?』『本当はちがうんだ日記 』『にょっ記』といった、いかにも大人気ないタイトルからも分かるように、永遠の青二才、いえ、永遠の“まだ中”(まだ中学生)。
妄想の中で妖精だか天使だかを連れて歩き、夕餉にコンビニの菓子パンをかじる、結婚しない、できない男の代表だったはず。
なのに、この『もしもし、運命の人ですか。』というエッセイの中には

「外国にいる間中、妻の背後にぴったり貼りついて隠れている私とはえらい違いだ。」

と、さりげなく妻という一文字が挿入されています。
はあ?妻?妻の背後?ええっ?
思わず本をめくる手が宙に浮いてしました。
そういえば以前『にょっ記』を読んだときにも「妻」と会話しているみたいなシーンが出てきて、「印刷ミス?」と疑問に思ったけど、「ああ、妄想の妻ね、きっと」と勝手に解釈してスルーしてしまったんですが・・・。
裏付けをとるしかない、とネットで検索してみると、「WEB本の雑誌」、 「作家の読書道」に本人が肯定している言葉がありました。

まあ、作家が結婚しようがタレントが離婚しようが、私には影響のない話なんですけど。
しかし、もう「運命の人」見つけたのなら、いまさら〈私の天使〉探しも説得力に欠けますね。先の「妻」に関する一文も何だかのろけみたいに聞こえるじゃないですか。いや、きっとそうです。
結婚という生々しい現実を手に入れてしまった穂村弘さん、どうか私生活をあまり晒すことなく、さらなる妄想力を磨いていって欲しいものです。

「不実な美女か貞淑な醜女か」米原 万理

yonehara出版社: 新潮社 (1997/12)

同時通訳者の頭の中って、一体どうなっているんだろう?異文化の摩擦点である同時通訳の現場は緊張に次ぐ緊張の連続。思わぬ事態が出来する。いかにピンチを切り抜け、とっさの機転をきかせるか。日本のロシア語通訳では史上最強と謳われる著者が、失敗談、珍談・奇談を交えつつ同時通訳の内幕を初公開!「通訳」を徹底的に分析し、言語そのものの本質にも迫る、爆笑の大研究。
(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

どこかで名前を聞いたことがある、という程度に知っている著者だったので、『不実な美女か貞淑な醜女か』という怪しげなタイトルと表紙イラスト故、別のジャンルの本と誤解して手を出さずにいました。
最近、偶々目にした読書ブログで「文句無く面白い」と紹介されていて読んでみる気になったのですが、ホント、文句無く面白かったです。

米原万理さんはロシア語の同時通訳者として活躍され、「テレビの同時通訳により正確で迅速な報道に貢献したとして日本女性放送者懇談会賞」を受けた方だそうです。
本書は、「働く女性」のエッセイであるばかりでなく、その実態をあまり知られていない同時通訳者達のドキュメントでもあり、示唆に富んだ国際論、異文化論でもあり、爆笑間違いなしの小話満載、お笑い本でもあり、といったところ。

含蓄のあるメッセージが多く、私の目からもウロコが何枚か剥げ落ちました。
例えば、私などは自分が英会話ができないことを棚にあげ、いやだからこそというか、各国首脳が集まる国際的場面において、我が国の総理が日本語でスピーチをしているのを見ると、「国際語をしゃべれないなんて、ちょっとかっこ悪いんじゃない?」と、恥ずかしく思ったりしたものですが、米原万理さんは、『英語で演説したがる総理大臣』に対して、どうか日本語でスピーチして欲しいと苦言を呈しています。
「言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。」「どんな小さな国の人も自らの母語で、一番自由に駆使できる、一番分りやすい、一番伝えやすい、その母語で発言する権利がある」
その異文化間のコミュニケーションを取り持ち、相互理解を成立させるために、通訳や翻訳という職業があるのだ、と。

真の国際人とは、母国語で自分の言いたいことを豊かに表現出来る人のこと、という彼女の主張には説得力があります。日本人としては、まず何はさておき日本語をしっかり身につけていくことが大事なようです。ただ、私の今後の生活に外国語による会話が必要になる予定がないことは残念なのですが・・・・

米原万理さんは2006年に56歳で亡くなっています。私が読んだ2008年版の文庫では、“編集部注”として彼女の絶筆についてのエピソードが紹介されていました。そこから、最後まで真摯に、全身全霊を込めて仕事を愛し、猛スピードで人生を駆け抜けていった作者の姿が感じられ、胸を打たれます。

「生、死、神秘体験」立花 隆

rinsitaiken 出版社: 講談社 (2007/5/15)
内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

「私はいかにしてここに存在するようになったのか」という自分の存在根拠を追い求めた立花隆は「生命」とは何か、「私」とは何か、「臨死体験」とはどういった現象かを追求し、生と死の境界点を探して漂流する。死のプロセスを知ることにより、彼の考えはどう変化したのか。10人の碩学との対話が明らかにする。

立花隆さんの本を、わりと好きで読んでいます。
以前読んだ『21世紀知の挑戦』の中で立花隆さんは次のように語っています。
「私は自分の天職は、難しいことをやさしく語ることにあると思っているが、そういうことができるのも、恥ずかしい過去をいっぱい持ちながら、さらに恥をかくのをものともせず、徹底的に無知をさらけだしながら質問するからである。そして、書くときは、かつての無知なる自分にもわかるようにやさしく語ろうとするからである。」

時には、周囲の顰蹙を買うような言動もあり、バッシングされることも多い方です。私も彼の女性蔑視的発言には思わず「なんですと!」と片膝が立ちました。しかし、それでも、立花隆さんには、世間の目や口を恐れず、知的欲求の赴くまま「人間探求」を続けて欲しいと願っています。ま、私が願わなくても、彼は世間にひるむことの無い方であろうし、そこのところが好きなのですが。

ところで、人の死に「心臓死」以外に「脳死」という新しい死の判定が生まれ、その後ドナーカードが発行されました。自分がもし脳死状態になったら、臓器提供をします、あるいはしたくありません、という臓器提供意思表示カード。
私も死後に誰かの役にたつならば、少しはマシな人生の終わり方に違いないと思い、カードが発行されてすぐ郵便局で手に入れ、この10年あまり携帯してきました。

しかし、今年7月臓器移植法の改正があり、本人の意思表明が無くても家族が同意すれば、脳死患者から臓器を取り出し移植することが可能になりました。
この法改正をきっかけに、私は「脳死」と「臓器移植」について再度しっかり考えてみようと、その視点でこの本を読み始めました。
「脳死」とはどういうものか。「脳死」の判定はどうやるのか。死後の臓器を移植することが、そのまま移植された人の幸せに繋がることなのか。なぜ法改正が必要になったのか。こういった疑問をちゃんと検討したうえで「提供する・しない」の意思表示をしたいと思っています。

「死後の体」については、宗教や民族、文化、加えて個人的理念による違いなどから、それに対する思いもその扱いもさまざまであることに驚かされます。
中でも一番驚いたのは、「いまの人間の葬り方は間違っている」と主張する人(生物学者なのかな?)が、「人間が死んだあと、その死体を焼くのはもったいない、焼けば公害は起きるしエネルギーも使う。これはエコロジーに反する。いちばんいいエコロジカルな人間の葬り方は死体から堆肥(コンポスト)をつくることだ」という考えのもと、コンポスト葬(堆肥葬)を提唱し、具体的な技術開発のための実験(動物を使って)を始めたという話です。
具体的な技術というのは、死体を切り刻んで、堆肥の発酵槽に入れて、いい堆肥を作る。想像すると頭がクラッとするホラーなシーンですが、人間が自然と融合して人類の食糧供給に役にたつ、究極のリサイクルシステムというわけですね。

山田利矢 陶壺展

平成22年11月11日(木)~21日(日)
※15日(月)はお休みです
AM10:00~PM6:00 ギャラリー&カフェ白樺にて

toukoten

当サイトでご紹介している皮革染色工芸作家、山田利喜子さんのお父様、故山田利矢氏の 陶壺展が開催されます。
鹿児島陶芸展、南日本美術展、県美展等に多数入選・入賞し、活躍されていらっしゃいましたが、今年2月5日逝去されました。前日まで作陶をされていたとお聞きしています。

いただいた案内状に山田利喜子さんの挨拶があります。ここに紹介したいと思います。

ご挨拶
父は人生の最後まで作ること、生きることに意欲を持ち楽しんでおりました。
そんな父の作品たちを大切に持っていただきたくチャリティオークション形式といたしました。
感謝の気持ちを込めて。

ギャラリー&カフェ白樺 鹿児島市泉町14-9 TEL099-226-4518

テレビドラマ化について

誉田哲也の「ストロベリーナイト」が単発ドラマとしてテレビで放映されるという。それを聞いて私はちょっと驚いています。

今年、原作の文庫を読んだばかり。その際「あれ、これ前に読んだかなあ、テレビで観たんだっけ・・」と最後まで既視感が付きまとい、ネットで調べたことがありました。その時点では過去にテレビ化されたという情報はなく、「そりゃそうだよね。いくらなんでもこれは映像化できないよねえ」と思った作品でした。
なにしろ殺人シーンがね、グロテスク過ぎる。それに殺人者の精神状態や家庭環境、児童虐待の描写などもムゴ過ぎる。
もちろん、このすさまじいシーンを描写できるのが作家の力量なのだろうとは思いますが、しかしこれは本だから許されるんじゃないのかなあ。

映画と違ってR指定が機能しないテレビ。
最近では携帯で観ている人も多いパーソナルメディアでもあります。良くも悪くも子供から大人まで、かなりの影響力を持つ情報媒体です。本当にこんなシーンを映し出すつもりなのかしら?なぜ、この作品をチョイスしたのかな?もっと楽しめる原作が他にもたくさんあるんじゃない?いったいどんな人たちをターゲットにドラマ作りをしているのだろう、とテレビドラマ化に関しては、次々疑問が湧いてきます。

その反面、やっぱりなあ、とも思います。テレビってこういう刺激的な殺人が好きなんですね。
現実には小説を超えるような残虐な事件も起きるし、そういう事件にワッと飛びつくワイドショー感覚でドラマの素材を選んでいるのじゃないかと・・・・

ま、まだ放送されていない番組のことをとやかく考えるのは取り越し苦労というもの。おそらく「放送倫理・番組向上機構」にひっかからない範囲で納まるよう、映像処理され放送されるでしょう。それにグロテスクなものほど、ビジュアルに凝ると、むしろ美しくことさら意味ありげにみえることがありますしね。

しかし、もっと考えてみると、もし殺人事件の裁判員に選ばれたら、こういう映像もしっかり見なきゃいけないのですね。や~だ、怖~い、なんて甘ったれたことは言ってられないわけで、精神的にタフでなければ生きていけない。一般人にとってもハードボイルドな世の中ですね。