「人間はどこまで耐えられるのか」フランセス・アッシュクロフト

dokomade出版社:河出文庫
発行:2008年5月10日(初版)

人間はどこまで耐えられるのか-辛い環境に追い込まれたとき、心はどこまで耐えられるか、という話ではなく、生きるか死ぬかの極限状況における、肉体そのものの限界について書かれた本です。

著者は「オックスフォード大学の生理学部教授で、インシュリンの分泌に関する第一人者」だそうです。学者の書く科学の本ではあるけれど、ユーモアある軽妙な語り口に、専門的知識がない私にも楽しく読める本になっています。ただ人間の命の限界を扱っているだけに、ユーモアもちょっとブラックになりがちですが。

本書は
第1章、どのくらい高く登れるのか。
第2章、どのくらい深く潜れるのか。
第3章、どのくらいの暑さに耐えられるのか。
第4章、どのくらいの寒さに耐えられるのか。
第5章、どのくらい速く走れるのか。
第6章、宇宙で生きていけるのか。
第7章、生命はどこまで耐えられるのか。
と7章編成になっています。

私は高山病になるほど高い山に登ったことはありません。スキューバダイビングも経験がないし、その前に泳ぐことすらできないカナヅチ。凍てつく冬のバルカン半島に行ったこともなければ、クウェートの灼熱の砂漠の存在すら知らない。50mを全速力で走って8.8秒(中学時のタイム)の鈍足だし、宇宙飛行も今後する予定はない。
危険なことや危険な場所に自ら飛び込むような冒険心も運動能力も、一切持ち合わせていないのです。

それに引き替え、世の中にはなんと冒険心あふれる人々が多いことか。
極限の過酷な環境のもと、命がけで仕事をする人々がなんと多くいることか。
そして、自らの身体を実験台にして、肉体的限界を見極めようとする研究者たちや、限界に挑戦した探検家や冒険家やアスリートたちの成功と失敗の歴史。
期せずして極限状態に投げ出されてしまった人々の死と生還の記録。
それらの貴重なデータによって、テクノロジーが発達し、「人間の限界」が更新されていく・・・

本書は極限状態と戦っている人たちのエピソードが興味深く、冒険をしない私には感動を覚える1冊となりました。

「整形前夜」穂村 弘

seikei出版社:講談社 (2012/7/13)

『現実入門』を書いていた穂村弘さんも、結婚という生々しい現実を手に入れ、いまや「現実上級」資格取得者。
もはやイノセントな少年のままではいられなくなったからか、この『整形前夜』には、
「「今」をきっちり生きることができないために、そこから先の未来が次々に腐ってゆく。(非エレガンスのドミノ倒し)」
だとか、
「普通に真面目に働き続けることで幸福になれた時代は終わって、同じ道が今では「絶望」に繋がっているのではないか。(「普通列車「絶望」行」)」
なんていう、極めて現実を見据えたセリフも出てきたりします。
今回は妄想の天使も現れない。
ただし、のっけから、彼の留守中に部屋を整頓してくれるという「妻」が登場します。「結婚したんだもん!」というアピールでしょうか?いや、単にノロケたいだけでしょう。
妻と古本屋めぐりをしていることとか、一緒にグアムに行ったこととか、もう臆面もなく書いちゃっています。「人生はぴんとこない戦いの連続だ」と、怯え戸惑いながらも、しあわせなんですね。きっと。

それはさておいて、「中身がどんなものでもこれなら即買う、という傑作タイトル」の話が面白かったので、私も真似して、これまで読んだ本の中からタイトルが気に入ったものを書きだしてみました。
が、・・・・案外、思い出せないものです。

「幽霊の2/3」ヘレン・マクロイ
「時計じかけのオレンジ」アントニイ・バージェス
「幻の女」や「私が死んだ夜」/コーネル・ウールリッチ(=ウィリアム・アイリッシュ)
「10月は黄昏の国」/レイ ブラッドベリ
「月は無慈悲な夜の女王 」/ロバート・A. ハインライン
「笑う警官」/ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァル共著
「箱男」や「壁」/安部公房
「限りなく透明に近いブルー」/村上龍
「摩天楼の身代金」/リチャード・ジェサップ
「すベてがFになる」/森 博嗣
「潜水服は蝶の夢を見る」ジャン=ドミニック・ボービー
「意思ばかり生む夜」/小西 啓
「ハルビン・カフェ  」/打海 文三
「あなたの人生の物語 」/テッド・チャン
「ここがウィネトカなら、きみはジュデイ」大森望編
「冷たい方程式」/トム・ゴドウィン

穂村弘さんの本もタイトルに魅かれます。「世界音痴」や「本当はちがうんだ日記」も好きなタイトルで、中身もタイトルのイメージを裏切らない。
しかし、この『整形前夜』はちょっと予想外でした。
タイトルから私が想像したのは、常日頃、素敵男子になることを熱望してやまない作者のことだから、ついに整形したか!小心者だから、たぶんプチ整形に手を出したに違いない、というものでしたが、全くハズレ。
『整形前夜』はノーマ・ジーンがマリリン・モンローに変わる、その前夜について語ったものでした。
「男たちは多くを期待しすぎるけれど、私には応えてあげることができない。彼らは、鐘が鳴るのを、汽笛が鳴るのを期待する。でも私の体は他の女性たちと同じなの」
マリリン・モンローの言葉だそうです。
「分かる、分かる」と、言ってみたい。

「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿

zetubouno出版社: 講談社 (2011/9/6)

日本という国はつくづく若い人間を大事にしない国だと思う。

昭和時代、第二次世界大戦末期に実施された、戦死を前提とした特攻隊(特別攻撃隊)に駆り出されたのは、10代から20代の若者たち。若者の命を爆弾1個分と引き換えにするという、とんでもない作戦を考え付いたのは、当時の大人たちでした。

平成の現代においても、国の財政破綻のしわ寄せは若者にきています。

パート、アルバイト、派遣、契約社員など、安くてクビにしやすい労働力として、非正規雇用の若者が増え続けている。2011年には15~24歳非正規比率が男49.1%、女51.3%というデータもあります。( 「社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune」本川 裕
会社都合でいつクビになるか分からない非正規社員という身分は、若者たちに結婚や子育てを含む将来設計を立てにくくしています。国民年金を掛けられる余裕はないし、そもそも将来社会保障が機能しているかどうかも保証がない。

7月5日、大飯原発3号機は発電を開始しました。原発は安全性の問題も放射性廃棄物の処理も、すべて先送り。若者たちが原発のリスクをこの先ずっと背負い、将来彼らや彼らの子どもたち世代が何とかすればいいだろう、って一部の大人たちは考えているのです。

日本は若者が未来に希望の持てない国になっている。それは確かだと思う。

しかし、社会学者古市憲寿氏は、「絶望の国の幸福な若者たち」の中で

「2011年現在、若者たちは過去の若者と比べても、『幸せ』だと思う」

と言っています。
「絶望の国の幸福な若者たち」は、この26歳の社会学者によって書かれた若者による若者目線の若者論です。
著者は大量の資料やデータをもとに、過去の若者世代やこの国の近代化を検証し、現代の若者の「幸せ」を立証しようと試みています。

驚いたことに、 2010年の時点で20代の70.5%が現在の生活に満足しているという「国民生活に関する世論調査」があるそうです。
この満足度は70代以上の次に20代が高く、40代から50代はぐんと低くなる。若者の親世代の方がよっぽど日々不満を抱きつつ、生活していることになるようです。

とは言え、この満足度は未来に希望が無いからこそ高くなるとも考えられる。

「もはや自分がこれ以上幸せになるとは思えない時、人は『今の生活が幸せだと答えるしかない。

というわけです。

読み進めるうちに、この国の現状は若者世代だけに特に厳しいわけでなく、どの世代にもまんべんなく世代内の格差があること、大多数の一般人にとって、老いていくほどに暮らしにくくなる社会であるということがはっきりしてきます。
まあ、既にみんなが気が付いていることではあるけど・・・・

私自身も将来のことを考えると気持ちが凹むポジションにいるので、何とかささやかな幸せを身近なところに作り、今の生活に満足しようと考えたりしています。中高年だって結構若者と似たような状況です。
でも「今の生活に満足していますか」と聞かれたら、「満足している」とは、まだ答えたくはない。
何が起こるか分からないのが世の中さ、って思っています。
今の若者たちの中から 10年先、20年先、日本を変えるような人物が現れないとも限らない。
若者を、いや若者だけでなく、国民を大事にする大人の国になっているかもしれない。
根拠はないけど、希望は持っています。

著者はクールなヤツなのか、ただの皮肉屋なのか、クールで皮肉屋なのか、最後にこうも言っています。

「『日本』がなくなっても、かつて『日本』だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである」

もろ手を挙げて同意はできないけど、最近やたら聞こえてくる「国益」「国益」って言葉をきくと、「国」より大事なのは「人」でしょ、って私も思います。

アンダー・コントロール

映画『アンダー・コントロール』
原題:Unter Kontrolle/2011年ドイツ映画

先日、ガーデンズシネマで映画『アンダー・コントロール』を観ました。
ドイツの原子力発電関連施設を3年間にわたり取材したドキュメンタリーです。
各原子力発電施設等を一つ一つ、ほとんど映像のみで、淡々と映し出していくだけなので、予備知識が無いと、ちょっとわかりにくい内容でした。
キャッチコピーが「映画で見る“原発解体マニュアル”」

ドイツでは2022年の原発撤退に向けて、着々と準備が進められているそうです。
巨大な原子炉を廃炉にしていく危険な作業の工程も冷静に見つめている映画ですが、じんわりとした恐怖が浸み出してきます。

この映画で衝撃的だったのが、「ワンダーランド・カルカー 」という遊園地のシーン。
運転中止になった原発を遊園地として利用しているのですが、冷却塔の上では高さが58メートルもある回転ブランコがぐるぐる回り、観客たちが歓声をあげる。悪夢とも思える光景なのですが、これはこれで原発の再利用になっているようです。


ワンダーランド・カルカー
高速増殖炉SNR-300(またはカルカー増殖炉)は、日本のもんじゅと同時期にドイツで初めて運転される予定だった高速増殖炉である。1985年に試運転を開始したものの、1986年チェルノブイリ原子力発電所事故をきっかけにそれまで継続していた反対運動がさらに勢いを増したことで、本格運転に至らないまま、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府から運転許可の取り消しを受けた。さらに、建設コストが当初予定の18億マルクから80億マルク以上になり、原発推進の立場だった連邦与党のドイツキリスト教民主同盟は、1991年にコスト面の問題を理由に計画中止を発表した。ヘンニー・ファン・デル・モストが所有者である電気事業者から原子炉施設を買い取った後は、まず遊園地の整備が始まり、冷却塔の外壁がクライミングウォール、中央制御室がレストラン、タービン室がトイレ、消防隊室がボウリング場、そして原子炉建屋がホテルに改装された。プルトニウム燃料が入ることのなかった原子炉自体も、「原子炉内探検ツアー」が体験できるよう、底部に電飾を施して見学者を受け入れた。こうした経緯から、SNR-300をドイツの「脱・原発」の原点とみなす意見もある。
ウィキペディア「 ワンダーランド・カルカー」より抜粋

原子力事業は、続ければ続けるほど危険を上積みしていくだけ。
再稼働なんて言ってる場合じゃないです。
今優先される課題は、廃炉のための技術開発や放射性廃棄物の安全な処分。
それが、今回の原発事故への責任の取り方ではないか、と思うのですが・・・ 

レディオヘッドと「1984年」

「わたしはずっと恋焦がれていたのである。フジロックに。
どこかの山奥で、なにやら楽しげなフェスティバルが毎年開かれていることは、雑誌の記事等で知っていた。」
これは、奥田英朗のエッセイ「用もないのに」(文春文庫/2012年)の遠足編、「おやじフジロックに行く。しかも雨・・・・。」の書き出しです。youmonainoni
これを読んで私は、フジロックという日本最大規模の野外音楽フェスティバルがあること、しかも私が20代の頃好きだったニール・ヤングが出演したりもすることを、今年になって初めて知りました。

今年も7月29日、30日、31日の3日間開催されたようです。
そして今年はなんとレディオヘッドが登場!

1998年のある日「OKコンピューター」を聴いて以来、私はレディオヘッドのファンになり、それ以降アルバムを買い続けて、それ以前のものも全て手に入れ、なによりも新しいアルバムが出るごとにその音楽性が好きになっていく稀有な存在。
ファンとしてはフジロックに飛んで行きたいところでしたが、鹿児島県民にとって新潟県蔵王は遠すぎます。むしろ韓国の方が近い。
会場に入ってからも何万人の人波の中を泳ぐなんて、私にはそんなエネルギーはありません。若くないのです。

さて、レディオヘッド繋がりで、ジョージ・オーウェルの「1984年」をメモしておきます。
レディオヘッドの6枚目のアルバム『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』の1曲目「2+2=5」は、この「1984年」にインスパイアされて作られたものです。
不安を掻き立てるような印象的な曲で、プロモーションビデオのアニメーションが、ちょっとエグい。 

「1984年」を読むと、なるほど、そんなイメージがある小説でした。

1984

 1984年[新訳版]  ジョージ・オーウェル

早川書房; 新訳版 (2009/7/18) 高橋和久 訳
内容(Amazon.co.jp 「BOOK」データベースより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

1949年に書かれた近未来小説です。和暦で言えば戦後まもない昭和24年。
約30年後の近未来、1984年(昭和59年)を舞台に書かれています。
1984年、世界はオセアニア、ユーラシア、イートネシア、三大国にまとめられ、この三国は常にどちらかの国と戦争状態にある。
オセアニアは極度に管理された全体主義社会であり、党の幹部、一般党員、プロール(貧民労働者)の三つの階層で構成され、常に「テレスクリーン」によって、党員たちは24時間監視されている。というのがおおまかな設定。党には、名前と実態が裏腹な4つの省があります。

  • 「平和省」・・・戦争の遂行。
    「豊富省」・・・不足する食料や物資の、配給と統制を行う。
    「真理省」・・・歴史記録や新聞を、党の最新の発表に基づき改竄する。
    「愛情省」・・・拷問担当。

全てが「二重思考」のもとに運営される社会です。
「二重思考」とは、「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」
作品の中で幾度も繰り返される『2+2=5』。これも二重思考で考えると、2+2=4であることを知っているが、2+2=5であることが真実であることを疑わないこと、となります。

「二重思考」のほか、社会を管理統治しやすくする装置として、

  • 二十四時間監視する・・・「テレスクリーン」
    単純化された言葉・・・「ニュースピーク」
    仮想敵を想定して、これを憎悪させる・・・「憎悪週間」、「二分間憎悪」
    反逆者には拷問・・・「思考警察」、「非在人間」

などなど、作家の生み出した造語にはインパクトがあります。

作品の中で主人公ウィンストン・スミスはテレスクリーンの死角をみつけ、こっそり日記にこんな言葉を書きます。

自由とは2足す2が4であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

恋に落ち、自由を求める主人公とその恋人。拷問による服従に「愛」は勝てるのだろうか?
語り尽くせない本です。読むべき1冊だと思います。
付録の「ニュースピークの諸原理」、トマス・ピンチョンによる28ページに及ぶ解説も必読です。
蛇足ながら、訳者あとがきによると、英国で「読んだふり本」第一位の本でもあるそうです。