ナミビアの砂漠

監督 山中瑤子

出演 河井優美 金子大地 寛一郎

河井優美サン、役者に生まれついてるよね。大竹しのぶサンとか、そういう系列の。

話題にもなっていたし、観ようと思った。で、観始めてしばらくは、これ、ちょっと違うか、見づらいか…と、感じておりましたのさ。既視感というか、なんだか令和の昭和感、ちょっとあっけらかんとした方の例えば森下愛子・亜湖・竹田かほり、あたりのにっかつ感、なんか、もうそれ知ってる、と、感じてしまうものが。

元彼寛一郎の方が優しいしいいじゃん、なんでそっちに、と思っていた。お互い高めあえる関係になれそう、なんぞと口にする男金子大地よりはさ。後に分かります、あー、それはやっぱりいけないわ。

河井優美はこんな伸びやかな肢体の持ち主だったのか、ああいつの日か、この監督なり誰か女性監督の手による作品で、その佳き身体を露わに・・・、爺か私。

今彼と同棲してから激しい喧嘩を重ねてしまう。とにかく彼女のほうから突っかかって行き、取っ組み合いになる。そのエネルギーのぶつけ先がどこにも無い、見つからないことのいらだち?彼女を探し当てた元彼が、自分は彼女を理解しているよくわかっている、と、口にすることのあほらしさと真逆の、互いを理解しよう理解してもらいたいという姿勢が双方に無くて、一人と一人であるには狭すぎるだろ、という部屋で、クリエイターであるらしき今彼と、脱毛サロンで働くルーツが中国である(祖母は日本人だという)女と。

中国の親族たちからの電話に出る彼女が、你好!と何度も口にする、その你好は日本人の発音だなあ、そもそも中国人は初対面の人に対してぐらいしか你好って言わないのに。听不懂ティンブトン=聞き取れない、わからない、という意味の言葉だが、確かに響きが面白いかも。

ついに精神科でカウンセリングを受けることになる女。

彼女がしょっちゅう見ているスマホの画面が、ナミビアの砂漠。急に大画面にそのナミビアの砂漠の人工池?に集まるかっこいい牛のような鹿のような動物はヌー?その画面が良い。

久しぶりに観た日本映画でした。あーイマドキの日本映画を知らなさすぎるなあ。

 

 

犬がいた季節

著者 伊吹有喜

双葉文庫

高校に住み着いた白い犬。美術部の早瀬光司郎の席にいたことから、コーシローと呼ばれることになる。昭和63年度の卒業生たちのエピソードに始まり、令和元年の夏までの、高校生、そして卒業したかつての在校生たちの物語。時にコーシローの視点からも語られる。

この作家にしては、なんか普通の青春小説?と、ちょっとした残念な感じで読んでいたのだが、そうでもない仕掛け、その年の流行りの歌、出来事がそれぞれに挟み込まれる、例えば第1話だと映画『トップガン』、で、あ、その頃自分は、と読者もその季節に戻ることになるのだ。

第2話にはF1グランプリが出てくる。マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ、ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルだって!中島悟、鈴木亜久里!私はその頃も知ってはいるけど、もう少し後の、シューマッハやハッキネンの頃、頑張って夜中のテレビを見ていたー、もうすでに若すぎない年代で。そしてその番組のスタッフとして名前が出てくる人の親族が近しい女性だったこと、などに思いが広がる。まんまと仕掛けに引っかかることになる。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、ノストラダムスの大予言…。

進学校であるらしいのに、Howeverを“永遠にする方法”と訳す生徒がいるかあ、と思うがhow toとforeverをくっつけてそうなったエピソード気に入っています。

十二月の十日

著者 ジョージ・ソーンダース

出版社 河出書房新社

1913年、全米ベストセラー1位なった作品だそうだが。ほんとかよ、アメリカの読書人ってどんな層のどんな趣味の・・・と、思いながら読む。短編集で、最初の『ビクトリー・ラン』と最後の『十二月の十日』を除いて、ほぼディストピア、うっ、な、嫌なお話三昧。

『センブリカ・ガール日記』40歳になって日記を書くことにした父親。良き家庭人、良き父親だが、生活は苦しく、娘の誕生日パーティーについて頭を悩ませている。たまたま籤が当たって、娘のために“SG飾り”というものを庭に設置するのだが。それが何だかどうもわからないまま読み進み、どうやらそういうものらしいことがわかる…と、何だよ!なんなんだよ、と、大概思うだろ、おい!

『短くて恐ろしいフィルの時代』を読んで、別のも読んでみたいと思ったソーンダース2冊目、なのだが。翻訳の岸本佐和子さんはギャグと呼んでいるが、ギャグって。帯に、これほど共感を呼び、これほど笑わせてくれる小説家は~とあるが、はい?

そして得てして、何だよ!と思い、なんだってこんなの読み始めてるんだと思いつつ読み進んだものが、印象に残ったりする。

最後の表題作まで読んで救われるのはまあそうなので、良かったら読んでみる?あなたにはギャグ?

流麻溝十五号

監督 周美玲ゼロ・チョウ

出演 余佩真ユー・ペイチュン 連俞涵リエン・ユーハン 徐麗雯シュー・リーウェン 徐韜シュー・タオ

台湾、1953年、白色テロの時代。白色テロって何?台湾では、共産党狩り、赤狩り、の意味になる状況が、1947年の2・28事件以来、1950年代を中心にあった。日本人は太平洋戦争で敗戦したと同時に、貧困の中であっても平和を迎えたので、隣国台湾や朝鮮半島ではまだ戦争状態が続いていたり、戒厳令が後々まで存在していたことを知らずに生きてしまうことが多いだろう。

中国大陸での共産党との戦いに敗れた蒋介石が台湾に来て、国民党政府を建てたのが1949年。民主主義は名ばかりの恐怖政治の時代、緑島(火焼島)に政治犯が収容されていた。政治犯とされる女性たちが収容されていたところの住所が、『流麻溝十五号』。思想改造、教育校正を目的とされていたが行われていたのは重労働。

1945年に日本統治時代が終わってまだ数年の頃だから、日本語が普通に使われる。おかあさん と呼びかける。台湾語、北京語、そのほか台湾の方言も使われていたか。日本語が多いのは、大陸からやってきた支配者たちには通じない言語だからだろう。主人公の絵の上手な少女は、古川琴音サンに似てるよね。そして過酷な環境の中でも恋愛は生まれる。

侯孝賢の『悲情城市』ほか、台湾映画をよく観ている人にはこの時代の状況を目にすることは珍しいことではないが。ここまでひどいことではなくても、台湾の戒厳令が解除されたのは1987年だって。軍のもとに自由や人権が制限される、思想の自由は存在しない。思想犯を収容と言ったって実際にそうだったのは1割いるかどうか。

観終わって、でも、日本でも、入管などでは外国人に対してこれに近い虐待行為がつい最近でも行われていたことを思う。今現在でもロシアをはじめ、いくつもの、争い、殺し合いをしている国があることも。

今では緑島は観光地になっているとか。

 

幻想の書

著者 ポール・オースター

新潮文庫

映画『スモーク』や『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の脚本で先にポール・オースターという名前を知ったのだったかなあ。映画作品が好きなのに、あまり小説を読んでいない。久しぶりに読もうと思ったのは、TVの本紹介番組で、司会の鈴木保奈美が、ポール・オースターで一番好きなのは『幻想の書』だと言っていたから。

無声映画の時代に忽然と姿を消した、喜劇映画の監督・俳優だったヘクター・マン。飛行機事故で妻子を失い、失意の底にあったジンマーが、そのヘクターの映画と出会い、『ヘクター・マンの音なき世界』という彼の映画の研究書を書く。そしてある日、ヘクターの妻を名乗るフリーダからの手紙を受け取る。ヘクターが会いたいと言っている、と。そしてまたある日、アルマという女性が現れ、ニューメキシコの、病床にあるヘクターのもとに連れて行かれることになる。

複数の誰かの人生が重なって描かれ、一つ一つが独立した映画になりそうでもある。ヘクター・マンの作品とされるものも、実際に観られるものなら観たいと思わせる。

なかなか読み進めなかった、読むのに時間がかかったのだが、誠に読み応えのある優れた小説でありました。今年の4月に亡くなったんだったか。『スモーク』を撮った残りのフィルムで6日間で作った映画『ブルー・イン・ザ・フェイス』ってのがあるんだって。スモークのハーヴェイ・カイテルのほか、ルー・リード、マイケル・j・フォックス、マドンナとか出てるんだって。DVDは出ているけどリージョンコードが日本と違うんですと。まあもちろん日本語字幕も無いよね…。

そのままの翻訳なのだけれど、『The Book of Illusions』という原題のほうが合う気が。

 

ハブテトル ハブテトラン

著者 中島京子

ポプラ文庫

東京の小学校5年生で学級委員だったダイスケが、登校できなくなってしまった。あれこれあって、2学期をおばあちゃんの家で過ごそうということになる。夏休みに一人で飛行機に乗り、広島空港で降りると、迎えに来るはずだったおじいちゃんもおばあちゃんも姿が無い。迎えに来ようとして、おじいちゃんが玄関先で転んで骨折したという連絡が入る。代わりにハセガワさんという禿げ頭にサングラス、アロハシャツ、下駄をはいたおじさんが来る。ダイスケのことをでゃーすけと呼ぶ。ネズミがいるらしいごちゃごちゃの部屋のぺしゃんこの座布団を3枚並べて、そのハセガワさんの家に泊まることになったのが、ダイスケの広島第一日目。

新学期が始まる。担任のオオガキ先生は二百五十四歳と半月なのだと言う。

不登校になってしまった男の子が、短期留学みたいな転校をして、広島県福山市松永の小学校で二学期を過ごす間に、ゲタリンに出たり、プリントップを食べたり、オザヒロにちょっと惚れられたり、初恋の子だったサノタマミに会うために今治に行くのだが途中から自転車で頑張る羽目になったり、市のイベントのための下駄作りに加担することになったりして、終業式が来て、そして東京に帰る、話。

作者が2010年に『小さいおうち』で直木賞を撮る前、 2008年の作品。田舎がこんなに楽しいばかり、よい人ばかりのわけはないし、東京の5年生がそんなに幼くもないだろうと思うけれど、それはそれ、一気に読める良いお話。映画やドラマになっていないの?誰か作らないの?と、思う。ハブテトルとは拗ねてる、ぶんむくれてる、というような意味の方言だそうで。

吉祥寺ドリーミン てくてく散歩・おずおずコロナ

著者 山田詠美

幻冬舎文庫

ずいぶん久しぶりに山田詠美作品を読んだ。雑誌連載2020年~2023年のエッセー。コロナ禍の~、という言い方は正確に言うならコロナ禍下、というべき、ってうっすら何だか変、と思っていたことが指摘されて、ああそうだ、と思う。言葉尻番長、言葉の小姑を名乗っていても、“輩出”が次々と世に出る意味で、自動詞であること、~~が輩出する という言い方が正しいと知らなかった、と出てくる。知―らなかったあ、~~を輩出、だと思っていたよー私も。

エッセーだと熱血ポンちゃんのまだまだ初期の頃のもの、小説は2005年刊の『風味絶佳』が最後かなあ、初期作品はとても好きだったし避けて通ったわけでも無いが、長く離れていた。いつの間にか再婚してるし。今のお方、いい男だなあ、いや見た目は知らないが中身がさ、二人の組み合わせが、良いなあ、と思わされますのさ。実にアホな会話だけど深い知識と教養という裏打ちが二人共にないとそこ行かないでしょ、というような。

たった3~4年前の“コロナ禍”によるオリンピック延期だったり、なんだか昔話のように感じてしまうことがいろいろ出てくる。ああ、ここ数年のことだったんだなあ、あれも、これも。

耳障りと感じる言葉遣い、胡散臭く思われる人、など、の感覚が近い人の文章は読みやすく、久しぶりに一気読みした一冊でした。60歳を越えた彼女の小説もまた読もうと思っています。

 

 

未必のマクベス

著者 早瀬耕

ハヤカワ文庫

書店でやたらと見かけたのだが、単行本は2014年に、文庫は2017年に出ていて、今なぜ?北上次郎が帯を書いたのはいつのことなのかな?

なんというか、懐かしい感じの、10年ちょっと前というよりもっと前、時にしゃれた言葉を口にする探偵が出てきた時代、を思わせるのは文体か。読み進めるにつれ、結構な犯罪の話になっていくが、そこに高校時代の同級生、初恋といえるかどうかの女生徒、魅力的な女性たち、などが現れ、青春小説的な香りも帯びる。舞台が香港なのだが、それもまだ九龍城のあった頃のような犯罪都市、魔都に近い気がする。

Jプロトコルという日本の会社からHKプロトコルという香港の子会社の代表取締役として赴任することになった男。澳門のカジノで、ある老女の動きに気づいたことから、ちょっとした金を得る。そこで、黒髪の女性に「あなたは、王になって、旅に出なければならない」と言われる。

積み木カレンダーが何やらのヒントになっていたり、その積み木カレンダーに仕込まれていたUSBメモリをパソコンに差し込むと、かつての初恋相手と言える鍋島冬香からの連絡が入っていて。冬香は数学の天才だったらしい。主人公中井優一と同じ会社に入ってみようと思って、HKプロトコルに入社した、そしてある暗号化方式を発した、それの秘密鍵を推測する方法があることを、会社の人間に話してしまった。そこから・・・。

作家自身、コンピューター関係の会社に勤めていたそうだ。そういうことにお詳しい数学脳のお方の方が納得しやすいのかな。2009年ののコンピューター事情だけれど。かと思えばそもそものタイトルにマクベスとあるので、シェイクスピアをちゃんと知っている方がいいのだろう。私としてはちらほら出てくる広東語のルビに校正を入れたい気分だった。

だいぶファンタジーな仕立てで、そんなあ、という運びなのでありますが、私はこの作家のものをまた読みたいと思っておりますよ。

そして本編と関係ない話ですが、確かシェイクスビアがうちにはあるはず、と思って探したのです。その河出書房世界文学全集1、1967,1,4と買った日付を記してあるそれには、挿絵代わりに例えばヴィヴィアン・リーがマクベス夫人を演じている写真(シェイクスピア記念劇場、1955)なんてすごいものがいくつもあるのでした。

 

いますぐ抱きしめたい

監督 王家偉

撮影 劉偉強

出演 劉徳華 張学友 張曼玉

原題『旺角卡門(旺角カルメン)』英題『As Tears Go By』。1988年香港、王家偉初監督作品。撮影はまだクリストファー・ドイルではなくて、『インファナル・アフェア』などの監督、アンドリュー・ラウ。だが、その初めからウォン・カーウァイらしい映像なのだなあと改めて思う。

話はまあその後の彼の作品らしくは無い。黒社会のチンピラたち、アンディ・ラウは1961年生まれだそうだから、1988年には27歳、ピカピカの美しい男だが仕事は借金の取り立て、その手段は喧嘩。彼を慕う弟分、のちに歌神と呼ばれるジャッキー・チュンがどうしようもない莫迦な役。脳とか神経のどこかに問題があるとしか思えない行動ばかり。

従妹のマギーが肺の不調を病院で調べるためにやってきて、アンディの家に泊まることになる。初々しいマギー。

アンディだって褒められたものじゃない。長く付き合っていた女に見切りを付けられるに十分な理由だろう、それは、と思うぞ。

切れやすいジャッキーに振り回され。見放さないアンディ。

ああ、このシーンだ、昔のポスターの!と思うが私が観たのはレンタルビデオの表紙だっただろう。この作品、いくつか違うバージョンがあるとは知っていたが、公開される国で編集を変えたとか。それぞれの国情に合わせているらしい。死なないバージョンもあるそうだ。今回、劇中歌の女性が歌う曲、なんだっけ、これ知ってる、と思ったがなんと“トップ・ガン”の主題歌だった。林憶蓮の歌声。そのほかの歌声はアンディ。劇中歌もいくつかの組み合わせがあるという。

そして、クソな弟分のジャッキー、うまい。全くすっきりしないけれど、香港チンピラ映画の名作だと、今回スクリーンで観て思ったのでした。

ゴジラー1,0

監督 山崎貴

出演 神木隆之介 浜辺美波 山田裕貴 青木崇高 吉岡秀隆 安藤サクラ 佐々木蔵之介

数あるゴジラ映画、初めて映画館で観ました。ゴジラファンの皆様、そういうやつの感想をお許しあれ。

第二次世界大戦末期、零戦乗りの敷島は、機体の調子がおかしいと偽って小笠原諸島の島の海軍の基地に降りる。整備兵から怪しまれた夜、ゴジラを目撃する。ゴジラの襲撃に対し、零戦から爆撃するように言われるが、恐怖にすくんでしまい、何もできない。その間に、ほとんどの兵が死んでしまう。

戦争が終わり、東京に帰ってきた敷島、両親は亡くなっており、焦土と化した中、追っ手から逃げる典子から赤ん坊を渡され。身内がいなくなった者たちが、力を貸しあうこととなっていく。

そして、0となった日本にゴジラが現れ、マイナスへと。

山崎監督の『3丁目の夕日』では若者だった吉岡秀隆が、白髪交じりのおじさんになったんだなあ。なんだか鉄腕アトムのお茶の水博士を連想してしまった。これだけうまい役者をそろえて、ちょっとオーバーな、マンガチックな感があるのは、あえてそういう演出をしているのかな。神木隆之介子役時代の『妖怪大戦争』を観たとき、彼の一瞬の表情に、うまいなあ、この子!と気付き、その後『るろうに剣心』でもうわあと思い、映画の彼には期待してしまうところがある私がよろしくない、か。

ゴジラの造形、ゴジラシーンは凄かった。で、疑問。最初のゴジラと同じ、放射能を浴びてるんだよね、ものすごく放射能を発してもいるわけだよね、海洋汚染がひどいでしょう、あんなに近づいた人間だって汚染されたでしょう、と、思わない?第一号ゴジラと同じ、子供も楽しめるゴジラ設定ということなのかな。