2025年7月5日(土曜日)
監督 陳小雨
出演 葛兆美 劉丹 呉洲凱
水郷・江南の徳清。昔、母は舟で嫁入りしたという運河の町。
一人で気楽に暮らす母のもとを、上海で生活している娘家族が訪れる。アメリカ人の夫と一人娘がいる。みんなで夕飯を食べて、夜には車で帰って行く。語学学校を営む夫婦だが、経営は厳しい。帰路、母と電話中に、母が倒れたらしい様子。
病院で、余命宣告される。手術はできず、化学療法を続けるしかない。娘はもっと良い治療法があるはずだと、主張する。が、入院で苦しい治療を続け、同室の病人から嫌がられたりすることが母には負担であり、帰って自分の家で暮らすことを望む。そこそこ大きい病院のようだったが二人部屋にカーテンも無いんかい、と思いながら観る。
結局、自宅に戻り、娘が介護にあたる。夫と娘がアメリカに行っている間?と思ったがそうでもないようだ。息子もいるが、独身であまり頼りにならない。亡くなった父のように大工になりたかったが、反対され、地元で観光ガイドをしている。実は早逝した兄もいた(一人っ子政策の時代に?と思うが、地方によっては緩やかだったとか)。
背景の景色は美しいが、昭和の日本のような家族の在りよう、それぞれ事情を抱えてそれぞれ母への思いはあって、齟齬があって。
と、思ったら、この1994年生まれの監督は、小津安二郎の影響を受けているそうだ。なるほど。台湾のエドワード・ヤン監督を愛し、チベットのペマ・ツェテン監督の指導を受けたと。
エンディングに流れる歌が、『むすんでひらいて』のメロディで 不要怕船小 不要怕浪头高 船が小さくても怖がらないで 波が高いことを怖がらないで と始まる。曲が同じなのに全く違う柔らかい歌に聞こえる。帰宅後調べると、このメロディ、実はジャン・ジャック・ルソー作曲なのだそうだ。日本でも讃美歌~唱歌~軍歌、と変わって、戦後に今の童謡が広まったのだって。
原題 乘船而去 英題Gone with the Boat この英題、Gone with the Wind風と共に去りぬ に乗っかってるよね。
2025年7月4日(金曜日)
監督 エドワード・ヤン楊徳昌
出演 クー・ユールン柯宇綸チャン・チェン張震 タン・ツォンシェン ワン・チーザン ヴィルジニー・ルドワイヤン
この1996年の映画を、ビデオテープの時代にレンタルで観たのだが、どうやら3%程度しか記憶に残っていなかったようだ。張震、ルンルン、そしてフランス人の女の子が出ていて、スタッフとして出てくるオリヴィエ・アサヤスって何者?と思っていたこと、ぐらい。
なので、この時代経済発展ど真ん中、台北、都会、という背景と猥雑なあっけらかんな土着な、少年なんだか青年なんだか要領よく立ち回っているようで頭悪そうでもある4人にはいささか驚く。リーダーのレッドフィッシュは金持ちの親が最近事業に失敗して、親は借金取り?債権者?に追われている。ホンコンはその見た目を武器に女性を弄ぶ。坊主頭のトゥースぺイストはニセ占い師。新入りのルンルン。ホンコンが拾ってきた女は4人で共有するルールであるらしいとんでもなさ(マワすと言ってる)。空前の繁栄中の台北には外国人も集まってくる。恋人だった男を追いかけて、フランス人少女マルトもやってきた。
うさん臭さ下品さ満載の坊主頭トゥースぺイスト(歯磨き?なんで?)は、あれ、『クーリンチエ少年殺人事件』の、綺麗な声でプレスリーを歌った子だよねえ、こんな姿になってる。張震、柯宇綸もクーリンチエの少年だった。
あれこれの後、大人のお姉さんたちにマワされそうになるホンコン、大声で泣き出す。ずっと泣いている。
レッドフィッシュは、歯車の狂いで不幸な方へと転がる。
最後に希望の灯がともるのはルンルン、このころの柯宇綸は張震よりも見目麗しいと思うぞ。
原題『麻将』日本では麻雀と書くマージャン、4人の若者が調子に乗って大人たちをうまく転がしているつもりでおかしな方向に行くこの映画、古さを感じない。
オリヴィエ・アサヤスは、この頃の台湾ニューシネマにかかわったのち、フランスで映画監督になって一時はマギー・チャン張曼玉と結婚していた。ヴィルジニー・ルドワイヤンの映画も撮っているようだ。そして、知ってる人は知っている探偵濱マイクのシリーズの監督、林海象がどこかに出演しているのだそうだが、どこ?どれ?
2025年6月26日(木曜日)
監督 李相日
出演 吉沢亮 横浜流星 渡辺謙 田中泯 寺島しのぶ 高畑充希 黒川想矢 越川敬達
Netで見かける評は、8割がべた褒め、その8割のほとんどは歌舞伎をよく知らない人々、そして2割は評価しないもので、歌舞伎に詳しい人達。そして、歌舞伎の世界にいる人の評は悪くない、これを機に歌舞伎の舞台も観てほしい、と。
私は歌舞伎を観たことがある、というレベル。ド素人。で、あるが、時に強烈な違和を覚え、ドラマに没頭するには至らなかった。役者たちはみな、とても良い。何故女形であるらしいのに渡辺謙をキャスティングしたのかは不可解だが。主役二人(少年役も)がたかだか1年半の稽古であのレベルの踊り、振り、発声ができるのは凄い。が、ほとんど生まれた瞬間からその世界に身を置いている人たちとは並ぶべくもないのであり。バレエは高く飛翔する動きだが、日本舞踊や舞の、らせんを描くような身体のかたちは…。
と、いう技術の話は置いてしまおう。侠客の家に生まれた少年が天才的に踊りがうまく、かつ美しいのだ。そして争いにより父が死ぬ。直前の宴会の席で少年の踊りを見かけていた歌舞伎役者が、弟子として引き取る。そこには同年配の跡取り息子がいて。互いに対する嫉妬、羨望、或いはそれゆえの切磋琢磨。
私には時に、強烈に違和を感じる何かがあり、ドラマに没頭するまでには至らなかった。
後半に至って、中村歌右衛門さんを思わせる老いた女形役の田中泯さんが、その病床に吉沢亮を呼ぶ、手の動きからあとのしばらく、震えた。涙ぐみそうだった。何ほどの派手なことも無いそのシーンだけで、観た甲斐があるほどに。
私は吉田修一の原作を読んでいないのだが、どうやら私が感じた違和感の大半は、原作を読むと解決するらしい。そんなドサ回り舞台?とか駆け落ち妻はどうなった?とか妙な客とか、あれこれの細かい部分については。いつか読む日があるか。
『べらぼう』を見ていた時にふと、この役を若き日の勘三郎サンが演じていたら、と思った瞬間があった。横浜流星のひたむきにその役に向かう姿勢が見えすぎると言うか、勘三郎サンの色気があったらなあ、と思っちゃったのです。そして、若き日の、と言うなら、はまり役を演じた時のジュリー沢田研二にあった放射線、毒のようなものが、吉沢亮には見えない、気がした、のはまあ年寄りの繰り言かー。
2025年6月22日(日曜日)
監督 カン・スンヨン
出演 カン・シニル キム・ギュリ ペク・ソンヒョン
映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』やハン・ガンの小説『少年が来た』などで描かれた、光州に於いて1980年5月18日から27日にかけて、というごく短い期間に起こった、軍事政権とそれに対して民主化を求めた学生や市民との戦い。デモに始まり、それを鎮圧しようとしてどんどん残虐になっていく軍。
事件前日、小学生チョルスの祖父がオープンした中華料理店。市井に生きる人々、新しい生活が始まったばかりで希望に満ちて。チョルスは近所の同級生の女の子に恋していて。
日本でも、60年安保闘争、70年頃の全共闘その過激化で内ゲバ、リンチなどもあった、死者も出た、のだが。一つの国が共産圏と資本主義の国に分割されてしまい、あの大きな太平洋戦争が終わっても内戦は(少なくとも感情的に))終わっていない、と、言う状況下では、これほどの弾圧が、80年に、起こってしまう。アカという言葉が生きて使われる。
何度も光州事件にかかわるものを見聞きし読んでも、どうにも、どうしてこんな?と思ってしまう。隣の国日本の1980年を知る私は。それでも、同じ国の人間たちが争いたくさんの人々が殺されたこの事件が、映像化され語られる韓国であり、天安門事件を決して認めず、だから無かったことにされている中国とは雲泥の差であるけれど。
同じ国の人間同士で銃を向けあうことがなかなか理解できない、それでこの文章を書き終えることが遅れている間に、たとえばアメリカ国内で、トランプ大統領の移民政策に反発する人々がデモなどの行動を起こしている。対抗するために軍を発動させた大統領。
どこかが少し傾くと、驚くほど簡単に崩れて行く。異常なのは気象だけで十分な今だと言うのに。
2025年5月10日(土曜日)
著者 辻堂ゆめ
創元推理文庫
蒲田署刑事課に勤務する森垣里穂子には、6歳の頃にテレビで見た幼い放置子二人の悲惨な状況に泣き出した記憶があった。
殺害未遂事件の犯人とみられる女性ハナと係わるうちに、無国籍の人々が暮らすコミュニティの存在を知る。
離婚した場合、女性に限り、半年は再婚できなかった法律が、離婚後100日に変わったのが平成28年6月、そして撤廃されたのは令和6年4月だって。出生した子どもの父親の推定が重複するのを避けるため、だったんだとさ。要するに半年以内に出生届を出すと、自動的に前夫が父親と認定される仕組み。で、DVなどで前の結婚から逃げた女性の場合、居場所を知られないために、子が生まれても出生届を出さない。戸籍の無い人間となる。或いは何かしらの事情で無戸籍だった者に子が生まれ、無戸籍2代目、3代目となる。公的機関の受付あたりの壁に、無戸籍の人に向けたポスターが貼ってあるのを見たことがある。ああ、このあたりにもいるかもしれないのだ、と思った。
羽山という匿名捜査対策室の刑事と共に捜査を続ける里穂子。かつてテレビで見た放置子の事件は、『鳥籠事件』と呼ばれていた。その事件と関連しているのではないか、という様相が現れてくる。コロナ禍の時期の話なので、何かと捜査が進まないこともある。
2004年の是枝監督の映画『誰も知らない』で広く認識されるようになった放置子、無国籍子。作家はきちんと細かい調査をして取り組んでいることがわかる。第24回大藪春彦賞受賞。
2025年4月30日(水曜日)
著者 山口美桜
出版社 東京創元社
救急医、武田の見た溺死体「キュウキュウ十二」は、自分の顔そっくりだった。クローンのように。
同じ大病院に勤務していると知った、中学の同級生だった城崎と共に、その身元不明、瓜二つ,である死体の身元を調べ始める。
生殖医療の初期(と言っていいかな)、思い起こすと、匿名で精子を提供する話、よく目にしていた。今は?生殖医療の結果、日本ではまだ出自を知る権利を認められてはいないけれど、生まれた子どもが親を知る権利の問題から、ドナーが少なくなっているらしい。精子のみならず、卵子提供も当然あるわけだが。
医師である作家の、第一作(!)。ぐいぐい引き込まれる。途中までは一気に読む。美形で特殊な推定能力のようなものを持つ城崎がホームズ、事件の当事者ながら武田ワトソン的な役割でもあり、シリーズ化されるかも、と思わせる。
のだが、ねえ、この結果って・・・どうなの?これしかないかもしれないけど。実際、これに似たケースは実在するらしいことが途中に出てくる。
第34回鮎川哲也賞受賞作。今気づいた、最後のページに、城崎と、武田ではない研修医とのコンビの第2弾が刊行予定だって。
2025年4月27日(日曜日)
監督・脚本 劉伽茵
出演 胡歌 呉磊 斎溪 娜仁花 甘昀宸
胡歌、呉磊と言えば、かの名作ドラマ『琅琊榜』のコンビなのだから、そりゃ期待する。が、この映画では、脚本家の夢破れて弔辞ライター(葬式ではなくて、追悼の会での、監督が創った職業であるらしい)をしている男であり、少し猫背で全くスターオーラの無い姿の胡歌、同居している弟?、と思っていた良くわからない若い男・呉磊、という姿で進む。
ずいぶんしっかりと調査した上で書かれる弔辞は、評判が良い。一緒に起業した会社のCEOが急死し、戸惑っている同僚、余命宣告を受け依頼してきたけれど、しばらく命がつながっている、ユーチューバー高齢女性、あるいは突然女性が押しかけてきて、彼が書いた弔辞に文句を言い立てる、彼女は亡くなった男とネット上の友人だった、など、さまざまな顧客やその友人がいて、さまざまな人生を垣間見る。
長く故郷に帰っていない。電話で話すだけの両親は、彼がまだ脚本を書いていると思っている。その誤解を訂正することは無い彼。
ホワイトボードに横一本の線を引き、亡くなった人の人生のポイントを描いて行く、それは脚本家としての習性なのか。
何ほどの変化、事件があるでなく、淡々と進んでいく。
後半に至り、あるきっかけでホワイトボードがひっくり返され、裏面が現れるとそこには…。
上海国際映画祭で賞を獲ったというこの作品だが、なんだこれ?という人がいるだろう。私は次第に好きだと思ってきて、最後に流れる歌声、この歌良いなあ、と浸っていたのだが、胡歌自身の歌声なのだった。
で、黄磊という俳優が出ているはずなのだが、あの辺に出てきた彼かなあ?わからなかったのだ、残念、でもあるし、なぜ私はこの映画を佳作と思うのだろう、とも思っているし、もう一度観に行きたいと、希望しています。呉磊はかつて胡歌の子供時代を演じたことがあるらしい。2度目『琅琊榜』で今回3度目の共演だそう。原題『不虚此行』は、無駄足を踏まなかった、行った甲斐があった、という意味。
2025年4月22日(火曜日)
著者 川上弘美・
文春文庫
川上弘美作品をどう紹介?解説?するか?。読後、要するに好きか全く興味が無い(さっぱりわからない)かどちらかになるのだろうと思う。
短編、ごく短い話ばかりの、最初の『ひみつ』は、欅の木の下に白い布が落ちていて、めくるとこどもが現れ…という話。こどもは大きな風呂敷ほどの布の下に住んでると言う。次の日にも会ったこどもが、成長しないこどものまま30年い続けている、という。こどもは変わらないが語り手は変わっていく。そういう、それだけの話。
時代がいつなのか、ちょっと混乱する。『スナック愛』では、朝の7時半から開いているその店にお客はほとんど来ない。オーナーのおばさんは「フランシーヌの場合」「白い蝶のサンバ」「ざんげの値打ちもない」を歌う。レトルト食品を出す店に、町の人たちは決して行かない。「蠅の王」ではこの町のギャンブルを丸じいという男が取り仕切っていて、十匹並べた豚にそれぞれ何匹の蠅がたかるかを競うのだ(私は昔々ゴールディングの“蠅の王”を読んだ記憶はあるが、蠅が群がる豚の頭が出てくる話だったことすら覚えていなかった)。『拷問』では政府が転覆。革命軍がNHKを占領し、革命軍の作ったビデオを流し続けるのでためしてガッテンもサラメシも見られない。このあたりでは時間は流れるのでなく跳ぶ、または飛ぶのか。
解説を作家の古川日出男が書いている、その中で『おばあちゃん』という話の中に語り手が小学校低学年だった時に、まだ40代半ばだった人をおばあちゃんと呼んでいて、その人の家には自分より年少の男の子がいるのを目にした、と語られていること、に、ついて。その男の子は白い布の子か?するとそこで語り手の交代が行われているのか?という考察がなされている。私はなーんにも気づかず読み過ごしてしもうたよ。
たまに読むたびこの作家の作品が好きだと思うが、その割に少ししか読んでいない。この妙な話を、もう少し読み込んでみよう。ふわっと読み進むだけでは気づかないことがまだあるだろう。
2025年4月17日(木曜日)
著者 マーガレット・アトウッド
ハヤカワepi文庫
『侍女の物語』から15年後の、あの男性上位男尊女卑国家ギレアデの物語。あの、と言っても読んだのがいつだったか、ギレアデの国家の仕組みをちゃんと覚えてなどいなかった私である。そして、この『誓願』で、まず最初の語り手は誰なのか?次の章の証人の供述はいつの、誰の?などが知らされないまま進んでいくので、一つ一つ嚙み砕こうとして時間がかかった…が、ちゃんと目次、それぞれの表題を見ておかなかった私が悪うございました。
ギレアデ、核汚染やさまざまな問題を抱えて維持が難しくなっていたアメリカ合衆国にある日クーデターが起こり、東海岸方面に生まれた、キリスト教原理主義による男性優位国家。身分制度(女性たちには特に奇妙な)がはっきりとあり、監視社会である。イランとか、イスラム教の国で突然国家体制がはるか昔の形に戻り、女性が教育を受けられなくなるなどの例はしばしば見聞きする。それがアメリカという国で、という話だが、2025年現在、トランプ大統領というお方がなにかと引っ掻き回している状況、性別は男性と女性だけ、LGBTQ?知らん、という態度など、第二次世界大戦以前の社会へ戻そうとしているようだし、全くの虚構でも無さそうに思えてしまう。芸能界、マスコミの一部に、実にいつの時代だ!と思われる女性蔑視的な姿勢がまだ残っていることを知らされた昨今の日本であるし。
『侍女の物語』から続けて読めればよかったなー、と思う話。リディア小母という人の在り方など特に。長い話だが、読後感は悪くないですよ。
2025年3月26日(水曜日)
監督 ギデンズ・コー(九把刀)
出演 クー・チェンドン ビビアン・ソン ワン・ジン マー・ジージャン
近所の老人たちとバスケットボールを楽しんでいたところへ、急な雨。落雷で死んでしまう青年孝綸。冥界に来た。あれこれあって、同時期に冥界にやってきたピンキーと共に現世で“月老(月下老人)”として縁結びの役目を果たすことになる。
台湾だなー、仏教の寺のほか道教の廟とかたくさんあるもんねえ、韓国のホラーな悪霊とだいぶ違うな、と思いつつなんだってこんな映画?と。『あの頃、君を追いかけた』『私の少女時代』『セデック・パレ』などとても好きな台湾映画で見知っている顔が数人出ているけどどこへ行く、これ…。
落雷を受けたせいか記憶を失っていた孝綸だったが、一頭の犬が目の前に現れたことで記憶を取り戻す。小学校時代に転校してきた女の子、小味に一目ぼれ、その教室でプロポーズして以来、ずっと変わらず追いかけ、結婚するはずだったこと。
ホラー系ファンタジーでちょっと下品で青春映画で、いろいろな要素てんこ盛りでありながら破綻せず成り立っている、というのはなかなかの手腕ということだろう。冥界のホラーな造形のお方たちのシーンでもつい笑いがでてしまうのでしたよ。それにしても、『あの頃、・・・』が2011年、『私の・・・』が2015年かー、瞬く間…。
それについては有名なことのようです。もの知らぬ我らでありますことよ。 友人が、…