日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」」へ、音声史の旅

著者 釘抜亨

中公新書

平安時代には、現在の はひふへほ は ふぁふぃふふぇふぉ であった、というのは時に目にする。源氏物語を、当時の発音に近い読み方で朗読、ということをしている人が、そんな読み方をしているのを目にしたこともある。もっと昔は ぱぴぷぺぽ であった、ということも目にしたことがある。

その奈良時代には、日本語の母音は8つあったんだって。現在のサ行は、その頃 つぁつぃつつぇつぉ だったって。録音方法なんて無いのに、どうしてそんなことがわかるのか、というと。

万葉仮名による表記の中で、例えばコの音を表す時、己 の字を使うもの、古 の字を使うもの、単語によって必ず使い分けがある、ということは、コの発音が2種類あるということだとわかる。そして、その区別は奈良時代末期~平安時代初頭あたりで消滅しているそうだ。そんな風に現代の発音に照らして漢字が2種類使われ、どの場合もどこかの時代まではその使い方が混ざることが無い、かどうかを逐一検討する、という学問が、言語学というものか、と気の遠くなる思い。

そう言えば『光る君へ』のドラマの中で紫式部が書く文字はすべて万葉仮名なんだな、と、改めて気づく。総平仮名!片仮名の方は、漢文を読み下すための符号であったと。お経とか。

で、年経て母音が減り、発音も変化し、物語が書かれた当時はその発音通りの表音文字であったものが、読み手にとって混乱を招くものになってくる。で、現代の私達が古文として認識している漢字仮名交じり文、それを生み出したのは、藤原定家なんだそうな。鎌倉時代に至り、平安時代の文章を理解することが難しくなっていたのだそうで。

源氏物語を原文で読んだ、なんて口にしても、いやいやそれは違う!のであります。

祖父が、やかんのことをyakwanのように発音していたことを覚えている。漢字で薬缶と書くのだから、地方によってはそう発音をしていたとしても不思議は無い。けれど今の日本語にクァという発音は無い。外来語を除き。

室町時代の宣教師による日本語発音解説書、契沖、本居宣長の論、五十音というものの元が実は…などなど。

知能と研究心がもっと備わっていたら国語学の研究をしたかったかも、と思ったことがある。まことに不遜極まりないことでありました。

憑依

監督 キム・ソンシク

出演 カン・ドンウォン ホ・ジュノ イ・ソム

胡散臭い祈祷師コンビが、依頼によって悪霊払いをするところから始まる。何かと効果担当する助手がいる。え?と思うのは、祈祷師チョン博士(カン・ドンウォン)が鈴を手にして、鳴らすようなしぐさをすること。鳴らないが。

また別の依頼があり、どこか地方のさびれた気配のところに住む姉妹を訪ねる。妹に悪霊が憑いているいるという。いつもの儀式に入ろうとして、鈴を振ると、音が鳴る。実は博士は高名な祈祷師の末裔で、手にしている鈴は、本物の悪霊に対する時のみ鳴るのだ。ただし、彼には例は見えない。依頼した姉の方には霊の姿が見える。欠けた剣と鈴という呪具を手に、妹に憑依している悪鬼と戦うことになる博士たち。

別の呪術師によって降臨する天女?女神?のお姿、なんだなんだ?憑依というタイトルに間違いは無いのだが、だいぶ初めの方から笑える。グエムル(姉がちょっとペ・ドゥナに似てて)とか陰陽師とかインディ・ジョーンズとか魔術師物のアニメあれこれとか、いろいろ思い起こされる。

カン・ドンウォンを初めて観たのは何だったのか、思い出せない。ドラマだったはず。映画は?デュエリストしか観てないんだっけ?私。是枝監督の『ベイビー・ブローカー』見そびれたし。カン・ドンウォンだ、観るぞ!と思ったのに。そしてお見掛けしなかったこの年月の間に、なんだかニノに似てる感、ずいぶん長身の。

私には充分楽しめた。何かを連想させてもやっぱり韓国のホラーだし。どうやらシリーズ化するんじゃないの?という気配、そりゃそうなったらまた観ますよ。

 

西湖畔に生きる

監督 グー・シャオガン

出演 呉磊 蒋勤勤 陈建斌 王佳佳

『春江水暖』に続く顾晓岗監督作品。杭州の西湖界隈の美しい自然が描かれる一方、西湖の向こう側にはビルが立ち並ぶ都会が見えているように、現代のマルチ商法詐欺に引き込まれていく母親、阻止するために動く息子の姿。

茶畑で茶摘みをしていた母・苔花とその息子・目蓮。父は10年前に行方不明になっている。母も恋をする。相手の男の母親が怒鳴り込んできて、仕事をクビになる苔花。

友人に誘われ、高額を手にすることができるとうたうビジネスに引き込まれていく苔花。そのグループの新興宗教教祖のような謳い文句、祭りのような勢い、叫び。地味に茶摘みをしていた女が、派手な化粧や服装になり、高揚し自己肯定感に包まれていく。家を売り払って資金を作り、商品を積み上げている。足裏に貼る湿布だよ、それであれもこれも健康になるってさあ。

苔花を演じている女性、時代劇ドラマで見た顔・・・「清越坊の女たち 当家主母」だ。息子は『琅琊榜』の時にはまだ少年だった呉磊、成長を見守るハハゴコロというかババゴコロと申すかそんな気分。3歳の頃からこの世界にいるそうだ。

頑張って母を助け出す。その後の描き方はどこまでが現実か幻想か。息子は大学を出ているのになかなか良い仕事に就けない様子なのは今の中国の状況だろう。生活費はどうしている?と疑問が沸くのだが。

『目蓮救母』と言う、釈迦の十大弟子の一人が地獄に落ちた母を救うという物語をベースにしている。音楽は梅林茂。山水映画第2弾ということなので、杭州の美しい景色を舞台にしたシリーズが続くのだろう。俳優たちは南方訛りの中国語で話していた。

侍タイムスリッパ-

監督 安田淳一

出演 山口馬木也 冨家ノリマサ

“カメラを止めるな”の再来、的な評判を目にして。

幕末、会津藩士が長州藩士と刀で戦っていた、突然の雨、落雷。気が付いた時、その場所は京都時代劇撮影所。トンチンカンな下っ端役者かエキストラと間違えられ、訳も分からず歩いていると、ポスターに幕末から140年、との文字が!

なんだかんだ都合よく寺の住職に拾われ、記憶喪失男として保護される。そして、殺陣師に入門し、撮影所で斬られ役として生きていくこととなる。

心配無用之介なる役の主演俳優が出てくるんだけどさ、これ、加藤雅也にオファーしてた、でもスケジュールが合わず・・・と、言うことだったそうな。本人も残念がっていたそうな。私も残念。殺陣師の役は福本清三さんを予定していたのだけど脚本完成前に亡くなられたと。

名前を知ってる俳優さんは、あと寺の住職の奥さん役の紅萬子さんぐらい、自主製作映画なのに、その時代劇愛が共感を呼び、東映京都撮影所が全面協力。

まあ、笑いましたよ。カメ止めほどか、というと私としてはそこまででは…。同じ時に雷に打たれたのに、数十年とか数年とか時間がずれてタイムスリップする、ことがありうる、という発想がこの映画の根幹かな。

 

 

 

ナミビアの砂漠

監督 山中瑤子

出演 河井優美 金子大地 寛一郎

河井優美サン、役者に生まれついてるよね。大竹しのぶサンとか、そういう系列の。

話題にもなっていたし、観ようと思った。で、観始めてしばらくは、これ、ちょっと違うか、見づらいか…と、感じておりましたのさ。既視感というか、なんだか令和の昭和感、ちょっとあっけらかんとした方の例えば森下愛子・亜湖・竹田かほり、あたりのにっかつ感、なんか、もうそれ知ってる、と、感じてしまうものが。

元彼寛一郎の方が優しいしいいじゃん、なんでそっちに、と思っていた。お互い高めあえる関係になれそう、なんぞと口にする男金子大地よりはさ。後に分かります、あー、それはやっぱりいけないわ。

河井優美はこんな伸びやかな肢体の持ち主だったのか、ああいつの日か、この監督なり誰か女性監督の手による作品で、その佳き身体を露わに・・・、爺か私。

今彼と同棲してから激しい喧嘩を重ねてしまう。とにかく彼女のほうから突っかかって行き、取っ組み合いになる。そのエネルギーのぶつけ先がどこにも無い、見つからないことのいらだち?彼女を探し当てた元彼が、自分は彼女を理解しているよくわかっている、と、口にすることのあほらしさと真逆の、互いを理解しよう理解してもらいたいという姿勢が双方に無くて、一人と一人であるには狭すぎるだろ、という部屋で、クリエイターであるらしき今彼と、脱毛サロンで働くルーツが中国である(祖母は日本人だという)女と。

中国の親族たちからの電話に出る彼女が、你好!と何度も口にする、その你好は日本人の発音だなあ、そもそも中国人は初対面の人に対してぐらいしか你好って言わないのに。听不懂ティンブトン=聞き取れない、わからない、という意味の言葉だが、確かに響きが面白いかも。

ついに精神科でカウンセリングを受けることになる女。

彼女がしょっちゅう見ているスマホの画面が、ナミビアの砂漠。急に大画面にそのナミビアの砂漠の人工池?に集まるかっこいい牛のような鹿のような動物はヌー?その画面が良い。

久しぶりに観た日本映画でした。あーイマドキの日本映画を知らなさすぎるなあ。

 

 

犬がいた季節

著者 伊吹有喜

双葉文庫

高校に住み着いた白い犬。美術部の早瀬光司郎の席にいたことから、コーシローと呼ばれることになる。昭和63年度の卒業生たちのエピソードに始まり、令和元年の夏までの、高校生、そして卒業したかつての在校生たちの物語。時にコーシローの視点からも語られる。

この作家にしては、なんか普通の青春小説?と、ちょっとした残念な感じで読んでいたのだが、そうでもない仕掛け、その年の流行りの歌、出来事がそれぞれに挟み込まれる、例えば第1話だと映画『トップガン』、で、あ、その頃自分は、と読者もその季節に戻ることになるのだ。

第2話にはF1グランプリが出てくる。マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ、ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルだって!中島悟、鈴木亜久里!私はその頃も知ってはいるけど、もう少し後の、シューマッハやハッキネンの頃、頑張って夜中のテレビを見ていたー、もうすでに若すぎない年代で。そしてその番組のスタッフとして名前が出てくる人の親族が近しい女性だったこと、などに思いが広がる。まんまと仕掛けに引っかかることになる。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、ノストラダムスの大予言…。

進学校であるらしいのに、Howeverを“永遠にする方法”と訳す生徒がいるかあ、と思うがhow toとforeverをくっつけてそうなったエピソード気に入っています。

十二月の十日

著者 ジョージ・ソーンダース

出版社 河出書房新社

1913年、全米ベストセラー1位なった作品だそうだが。ほんとかよ、アメリカの読書人ってどんな層のどんな趣味の・・・と、思いながら読む。短編集で、最初の『ビクトリー・ラン』と最後の『十二月の十日』を除いて、ほぼディストピア、うっ、な、嫌なお話三昧。

『センブリカ・ガール日記』40歳になって日記を書くことにした父親。良き家庭人、良き父親だが、生活は苦しく、娘の誕生日パーティーについて頭を悩ませている。たまたま籤が当たって、娘のために“SG飾り”というものを庭に設置するのだが。それが何だかどうもわからないまま読み進み、どうやらそういうものらしいことがわかる…と、何だよ!なんなんだよ、と、大概思うだろ、おい!

『短くて恐ろしいフィルの時代』を読んで、別のも読んでみたいと思ったソーンダース2冊目、なのだが。翻訳の岸本佐和子さんはギャグと呼んでいるが、ギャグって。帯に、これほど共感を呼び、これほど笑わせてくれる小説家は~とあるが、はい?

そして得てして、何だよ!と思い、なんだってこんなの読み始めてるんだと思いつつ読み進んだものが、印象に残ったりする。

最後の表題作まで読んで救われるのはまあそうなので、良かったら読んでみる?あなたにはギャグ?

流麻溝十五号

監督 周美玲ゼロ・チョウ

出演 余佩真ユー・ペイチュン 連俞涵リエン・ユーハン 徐麗雯シュー・リーウェン 徐韜シュー・タオ

台湾、1953年、白色テロの時代。白色テロって何?台湾では、共産党狩り、赤狩り、の意味になる状況が、1947年の2・28事件以来、1950年代を中心にあった。日本人は太平洋戦争で敗戦したと同時に、貧困の中であっても平和を迎えたので、隣国台湾や朝鮮半島ではまだ戦争状態が続いていたり、戒厳令が後々まで存在していたことを知らずに生きてしまうことが多いだろう。

中国大陸での共産党との戦いに敗れた蒋介石が台湾に来て、国民党政府を建てたのが1949年。民主主義は名ばかりの恐怖政治の時代、緑島(火焼島)に政治犯が収容されていた。政治犯とされる女性たちが収容されていたところの住所が、『流麻溝十五号』。思想改造、教育校正を目的とされていたが行われていたのは重労働。

1945年に日本統治時代が終わってまだ数年の頃だから、日本語が普通に使われる。おかあさん と呼びかける。台湾語、北京語、そのほか台湾の方言も使われていたか。日本語が多いのは、大陸からやってきた支配者たちには通じない言語だからだろう。主人公の絵の上手な少女は、古川琴音サンに似てるよね。そして過酷な環境の中でも恋愛は生まれる。

侯孝賢の『悲情城市』ほか、台湾映画をよく観ている人にはこの時代の状況を目にすることは珍しいことではないが。ここまでひどいことではなくても、台湾の戒厳令が解除されたのは1987年だって。軍のもとに自由や人権が制限される、思想の自由は存在しない。思想犯を収容と言ったって実際にそうだったのは1割いるかどうか。

観終わって、でも、日本でも、入管などでは外国人に対してこれに近い虐待行為がつい最近でも行われていたことを思う。今現在でもロシアをはじめ、いくつもの、争い、殺し合いをしている国があることも。

今では緑島は観光地になっているとか。

 

幻想の書

著者 ポール・オースター

新潮文庫

映画『スモーク』や『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の脚本で先にポール・オースターという名前を知ったのだったかなあ。映画作品が好きなのに、あまり小説を読んでいない。久しぶりに読もうと思ったのは、TVの本紹介番組で、司会の鈴木保奈美が、ポール・オースターで一番好きなのは『幻想の書』だと言っていたから。

無声映画の時代に忽然と姿を消した、喜劇映画の監督・俳優だったヘクター・マン。飛行機事故で妻子を失い、失意の底にあったジンマーが、そのヘクターの映画と出会い、『ヘクター・マンの音なき世界』という彼の映画の研究書を書く。そしてある日、ヘクターの妻を名乗るフリーダからの手紙を受け取る。ヘクターが会いたいと言っている、と。そしてまたある日、アルマという女性が現れ、ニューメキシコの、病床にあるヘクターのもとに連れて行かれることになる。

複数の誰かの人生が重なって描かれ、一つ一つが独立した映画になりそうでもある。ヘクター・マンの作品とされるものも、実際に観られるものなら観たいと思わせる。

なかなか読み進めなかった、読むのに時間がかかったのだが、誠に読み応えのある優れた小説でありました。今年の4月に亡くなったんだったか。『スモーク』を撮った残りのフィルムで6日間で作った映画『ブルー・イン・ザ・フェイス』ってのがあるんだって。スモークのハーヴェイ・カイテルのほか、ルー・リード、マイケル・j・フォックス、マドンナとか出てるんだって。DVDは出ているけどリージョンコードが日本と違うんですと。まあもちろん日本語字幕も無いよね…。

そのままの翻訳なのだけれど、『The Book of Illusions』という原題のほうが合う気が。

 

ハブテトル ハブテトラン

著者 中島京子

ポプラ文庫

東京の小学校5年生で学級委員だったダイスケが、登校できなくなってしまった。あれこれあって、2学期をおばあちゃんの家で過ごそうということになる。夏休みに一人で飛行機に乗り、広島空港で降りると、迎えに来るはずだったおじいちゃんもおばあちゃんも姿が無い。迎えに来ようとして、おじいちゃんが玄関先で転んで骨折したという連絡が入る。代わりにハセガワさんという禿げ頭にサングラス、アロハシャツ、下駄をはいたおじさんが来る。ダイスケのことをでゃーすけと呼ぶ。ネズミがいるらしいごちゃごちゃの部屋のぺしゃんこの座布団を3枚並べて、そのハセガワさんの家に泊まることになったのが、ダイスケの広島第一日目。

新学期が始まる。担任のオオガキ先生は二百五十四歳と半月なのだと言う。

不登校になってしまった男の子が、短期留学みたいな転校をして、広島県福山市松永の小学校で二学期を過ごす間に、ゲタリンに出たり、プリントップを食べたり、オザヒロにちょっと惚れられたり、初恋の子だったサノタマミに会うために今治に行くのだが途中から自転車で頑張る羽目になったり、市のイベントのための下駄作りに加担することになったりして、終業式が来て、そして東京に帰る、話。

作者が2010年に『小さいおうち』で直木賞を撮る前、 2008年の作品。田舎がこんなに楽しいばかり、よい人ばかりのわけはないし、東京の5年生がそんなに幼くもないだろうと思うけれど、それはそれ、一気に読める良いお話。映画やドラマになっていないの?誰か作らないの?と、思う。ハブテトルとは拗ねてる、ぶんむくれてる、というような意味の方言だそうで。