『アート・ヒステリー』—なんでもかんでもアートな国・ニッポン
著者 : 大野左紀子
出版社 : 河出書房新社
発売日 : 2012/9/26
著者の大野左紀子さんは、以前はアーティスト活動をされていたが、それをすっぱりやめて現在は文筆活動をされているという経歴の方です。
図書館でたまたま手にして、『なんでもかんでもアートな国・ニッポン』という副題に惹かれて表紙をめくると、
表紙の裏にはこう書かれていました。
アートは”希望”の灯火ではない。
人々を結ぶ”絆”でもない。
「アート=普遍的に良いもの」ですか?そこから疑ってみませんか?
アートが分からなくても、それは当たり前。
民主主義の太陽が生んだ「自由」と「個性」を掲げる美術教育と、
資本主義の飴がもたらした増殖、拡大し続けるアートワールド、
それらを通して、アートと私たちの関係を読み解いていきます。
たまに現代アートとかポップアートとか紹介される作品をニュースか何かで観て、「これもアートなの?」「これがなんで何十億円?」と驚くことがあります。
単にきれいな作品というだけではアートではない、とも言われるし、デュシャンの「泉」のように社会への問題提起というかメッセージが込められていれば、既成の便器がアートだ、芸術だ、となる。
それまでの既成概念を覆すこと、そのこと自体がアートなのか?
作品に物語性を込めることはそんなに大事なのか?説明されなければ分からない物語でも必要なのか?
アートについて日頃疑問に思うことはたくさんあるし、そもそも、「アート」と「芸術」の境界線が私には分からない。
誰かが、たぶんその時代の権威ある誰かが、これは「芸術」であると認定した作品を、私は「芸術」として観ているだけだと思う。
「芸術」と言われると単に好き嫌いで語られるものであってはならないし、何か意味のあるものだと思ったりするし、理解できなくても当たり前だと思ったりする。
とはいえ、周囲を見渡すとそんなに誰もがアートに興味があるわけでもなさそうだし、私が働いてきた職場でアートが話題になったことはないし、アートに興味があるのはアート業界の人たちだけなのかな?って思ったりする。
という様々な思いを巡らしながら、本書を読み始めました。
本書の目次は下記の通り。
「第一章 アートがわからなくても当たり前」
- ピカソって本当にいいですか?
- 疎外される「わからない人」
- アートの受容格差
- 「美術」はどこから来たのか
「第二章 図工の時間はたのしかったですか」
- 芸術という「糸巻き」
- 日本の美術教育
- 夢見る大人と現実的な子ども
- 問い直される理想
「第三章 アートは底の抜けた器」
- 液状化するアート
- 空想と現実の距離
- 村上隆の「父殺し」
- アートの終わるところ
本書は西洋美術がいかにして日本に取り入れられてきたか、民主主義や資本主義の観点から、児童に対する学校教育の観点から、そして現在の商業主義的なポップアートの事象などから、読み解いていて、”アートを語りたい!”という著者の熱意を感じる本でした。
ヒロ・ヤマガタやバンクシーのエピソードも面白かったですが、特に興味深かったのは、「第二章 図工の時間は楽しかったですか」です。
明治時代、小中学生の図画教育は、ひたすらお手本を模写し、図形や立体物を描写する「臨画教育」と言うもので、これの目指すところは「富国強兵と近代工業の発展に寄与する実用的な”眼と手の訓練”」だったという。
その後、社会の変革に伴う諸々の思想に影響されながら第二次世界大戦を経て戦後50年代に登場したのが「創造主義美術教育」(略して創美)。
「創美」の理念は「児童の想像力をのばすことは児童の個性をきたえる。児童の個性の伸長こそ新しい教育の目標」というものだったそうです。
そして70年代以降、図画工作・美術の学習指導要綱に次々と新メニューが盛り込まれ、それらを総合すると「創造性の育成」「豊かな発想」「造形的創造活動」「自由な表現力」「つくりだす喜び」「豊かな人間性」などといった目標が並びます。
そのあまりにも高い目標に、私は驚いてしまいました。
そして、本書によると小中学校では指導要綱の中に「絵の描き方を教える」という項目はないという。
「子どもの中にあらかじめ表現したい欲求があることが前提になっている」ので「教えるのではなく子どもが主体的に行うことを支援する」というのが学校側のスタンス。
子どもは誰もが皆生まれながらにしてアーティストだ、と大人は思っているのでしょうか。
子どもは皆自由で豊かな発想ができてそれを表現できる力を持っているはずだ、という幻想を抱いているように思えます。
ましてや、美術が「豊かな人間性」を育成するなどと、何を根拠にそう考えるのか、、、、、
学習指導要綱なんてお題目だけで、まあ、別にアーティストを養成しようと考えていたわけではないとしても、観念的なものを求め過ぎじゃないでしょうか。
著者は子どもへの教育について、
「美術についての知識や理解を深める「美術の教育」が不十分なまま「個性」「自由」「創造性」を賞揚することによって、子どもは美術を「無論理」的で「説明不能」なものと捉えるようになる」と危惧し、「美術の方法論を理解させる教育」、鑑賞することや知的理解も必要と書いています。
私も中学生の頃に、絵の描き方や方法論というものも学んでみたかった。あの頃はネットもYouTubeもなかったし。
画家とか彫刻家とか陶芸家とかイラストレーターとか漫画家とか、アニメーターとか、とにかくいろいろな美術業界の方たちが実際にどうやって制作しているのかを、子どもの頃に知ることもできたら面白かっただろうなあと思う。
「豊かな発想」や「自由な表現力」という、私にはハードルの高い「才能」と言えるものの有無に捉われず、もっと幅広い美術の楽しみ方も見つけられたのではないかと、今更ながら考えました。
市立美術館で七日まで開催中の“FROM THE EDGE”展を、大変面白く観たのですが、それとてすべてが好みだったわけではない。
コンテンポラリーアートに興味があると、コンテンポラリーダンスも好きな傾向がある、と思うけれど、興味を惹かれないタイプのコンテンポラリーダンスもあるなあ。
方法論と言うなら、私は小学校時代に作文教育を受けた覚えがある。そういう能力を評価された児童だけ集められたのだと思う。それって危険だし。難しいよね。
「FROM THE EDGE」で検索したら、まず「鬼滅の刃」関係の画像が出てきて、最初あれっ?と思ったけど、何とか無事市立美術館サイトへたどり着きました。
面白そうな展示ですね。
新しい体験からは新しい刺激を受けられそうです。