エスカレーター恐怖症
もう10年以上前のことです。
夫が亡くなる3ヵ月くらい前だっただろうか。
ある日突然、何の前触れもなく私はエスカレーター恐怖症になった。
エスカレーターの前に来ると恐怖に駆られ、動悸が激しく脂汗をかき、足がすくむようになった。
ちょっと前までは普通に乗れていたエスカレーターを前にして、たったの一歩が踏み出せなくなった。
最初は上りのエスカレーターだけだった。上りのエスカレーターがまるで切り立った急な崖のように思えた。
そのうち下りも乗れなくなった。下りは深い谷底を覗き込むようで恐ろしかった。
エスカレーターに乗れなくても階段やエレベーターを使えば、特に生活に支障はない。
たぶん社会生活では、エスカレーターよりエレベーターに乗れないことの方がずっと困るはずだ。
時々、エスカレーターの前で頑張って乗ろうとして足がすくんで動けなくなっている私を、奇異な目で見て通る人がいるくらいで、さして問題はなかった。
しだいにエスカレーターを避けるようになって1年半ほど経った頃、用事があって福岡に行った。繁華街にある大きな商業施設で人波に押し流されるまま、うっかりエスカレーターに乗ってしまった。
それは鹿児島では見たことのない恐ろしく長いエスカレーターだった。
足がすくみ激しい動悸にしゃがみ込みたい衝動に襲われる。脂汗をかきながら両手で手摺りにしがみつき「私が不安症なだけなのだ。みんな平気で乗っているのだから。大丈夫だから。」と自分に言い聞かせ恐怖と闘った。足元だけを見るようにして、何とか最後まで乗り切った。というか途中で逃げられない状況だからこその恐怖なのだが、、、
しかし、それが荒療治になったのか、その後だんだんエスカレーターに乗れるようになった。
限局性恐怖症
「エスカレーター恐怖症」で検索したら、MSDマニュアル家庭版というサイトに『限局性恐怖症』として詳しい解説があった。動物恐怖症や高所恐怖症、雷鳴恐怖症など割と多いらしい。
私の症状は全く下記に書かれている通りのものだった。
限局性恐怖症とは、特定の状況、環境、または対象に対して、非現実的で激しい不安や恐怖感が持続する状態です。
恐怖症によって不安が引き起こされ、特定の活動や状況を避けるようになるため、日常生活に支障をきたすことがあります。
通常は症状から明らかに診断がつきます。治療は通常、曝露療法を行います。限局性恐怖症がある人ではしばしば2つ以上の恐怖症が認められます。限局性恐怖症がある人は、不安や恐怖感を引き起こしそうな特定の状況や対象を避けるか、多大な苦痛を感じながらその状態に耐え、ときにパニック発作を起こすことがあります。しかし、そうした不安が過剰であるという自覚があり、自分に何らかの問題があることは気づいています。
今は乗れなかった日々のことが嘘のように、平気でエスカレーターを利用している。
上りのエスカレーターの前に立ち、何故あの頃これが急な崖のように見えたのだろうかと不思議に思ったりする。
目に見えない不安が物理的な現象を引き起こす、人間の不思議さ。
私の友人には、ある日突然、他人の前になると手が震えて文字が書けなくなってしまった人がいる。
政治家か誰かが宣誓書に署名をする手が震えていた、という映像をテレビで観たのがきっかけだったという。
彼女が携帯を買い替えに行きたいと言うので付き合って、手続きを代筆した。私よりもずっと大変な恐怖症を抱えているんだなあと思った。
今でも、両手を下げてエスカレーターの真ん中に立っている人を見ると、すごいなあと憧れの目で見る。まるで何の不安もない人のようにも思える。
でもひょっとしたら、その人はヘビ恐怖症かも知れない。あるいは雷鳴恐怖症かも知れない。
恐怖症は外からは見えないものなのだ。