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    sitokotoba「詩とことば」 荒川洋治


    発行:2012年6月 岩波現代文庫
    知らないうちに私たちは、生活のなかで、詩のことばを生きている。しかし、詩とは、なにをするものなのか?その意味を考えることは、私たちと世界とのあたらしい関係をひらくことにつながっている。詩をみつめる。詩を呼吸する。詩から飛ぶ。現代詩作家が、詩の生きる時代を照らしつつ、詩という存在について分析する。
    (背表紙から)


    近年、詩がメディアに登場し話題になった出来事と言えば、昨年の東日本大震災のあと、企業CMの代わりにテレビで流れたACジャパン(旧公共広告機構)のCMが思い出されます。金子みすずの『こだまでせうか』や、宮澤章二の『行為の意味』という詩を、毎日何度も耳にしました。
    あまりに大量に流されたため、ACジャパンはヒンシュクを買ったけど、ネット上、特にツイッターなどでは詩のパロディが競い合うように次々と出回ったり、「それぞれを収録している詩集がAmazon.co.jpでベストセラーランキングで上位を獲得した(ウィキペディア「ACジャパン」より抜粋)」りして、詩のことばが多くの人の心を動かしたのも事実です。
    子どもに言ってきかせるような、分かり易さが受けたのでせうか?

    しかし、まあ、それも、一時のブームだったかもしれません。
    私の主観ですが、詩はこの21世紀において、割と居場所がないような気がしています。
    私の、今までのどの職場でも、詩の話で盛り上がったことは、まずなかったし、普段の日常会話でも、詩はおしゃべりには向かない素材です。
    休憩時間や仕事の合間に、現代詩について語り合う職場・・・・そういう場面を想像してみると、詩が好きな私でも、楽しいというより、なんだかちょっと鬱陶しい気がします。
    何故、そんな風に思うのでしょう。

    「詩とことば」の冒頭で荒川洋治さんは、
    「詩にはことばのうえ、かたちのうえで、いくつかの特色がある。それらは読む人に楽しみと喜びを与えるいっぽうで、負担や不安を感じさせることもある」
    と書いています。本当にその通りだなあと思います。
    何故、詩が負担や不安を感じさせるのか。
    詩には、一行ずつの順序で進んでいく行分けというスタイルがありますが、これが読む人になじみにくいものだといいます。

    「詩のかたちをしたものは、なじみにくいものなのである。それはなぜか。行分けには、作者その人の呼吸の仕方がそのまま表れるからである。その人のもの、その人だけのものだから他の人はその人の呼吸に合わせることはできない。それが壁になるのだ。」

    なるほど、詩を読んでいて、何となく絡みづらい人と話しているような気分になるってことありますね。逆を言えば、心にすっと入ってくる詩というのは、無理せずに話ができる人に出会ったような、そんな気持ちよさがあります。

    この「詩とことば」にはいくつかの現代詩が取り上げられていますが、その中から短い詩をひとつ紹介します。


    「五十年」
                        木山捷平

    濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな
    どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
    そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた