すべての、白いものたちの

著者 ハン・ガン

河出文庫

文庫に入ってるんだ、と思った。白いものについて書こうと決めた と始まるその文章を2頁ほど眺めたところで、すでにお気に入りだった。

短い、散文詩のような文章。それぞれに表題がある。自分が生まれる前に、母はたった一人で早産で女の子を産み、その女の子は2時間で死んでしまった、ということが、テーマとして根底に流れる。1 私 では作家ハン・ガン自身の語りで。2 彼女 に於いては、その2か月で亡くなった彼女の視点として、作家の目が重なるような、描かれ方。3 すべての白いものたちの で、作家の想いのようなもの、と言ってよいか。

ワルシャワに滞在しているときに書かれたものだそうだ。繊細な、静かな、この文章を、原文で読む能力があれば・・・と無理なことを思う。韓国ドラマで自己主張の強い会話をしている家族、映画ではしばしば激しい暴力が描かれる、そういう韓国に慣れていると、一方でハングルでこんな感覚、こんな表現が存在するのだ、と思う。

年末から少しずつ読み進め、読み終えて、またもう一度読んだ。そして、書店で、次にどれを・・・と迷って、『引き出しに 夕方を しまっておいた』というタイトルがあまりに美しいので、詩集であるその本を買ってしまった。

昨年、ノーベル賞受賞で初めて知った作家だが、今年はハン・ガンにはまることだろう。困ったことに、借りて読もうと思う種類のものではない。たぶん残りの翻訳が出ているものは単行本だろう。

物語を一気に読み進めたい人には、あまりお勧めできないかもしれない。

なでし子物語

著者 伊吹有喜

ポプラ文庫

一日に数ページしか進まない本の合間に、このところ伊吹有喜が挟まってそれは一気読みしている。『ミッドナイト・バス』『カンパニー』など。そして、まあまあ分厚いこの本。間宮燿子という母親から育児放棄された子どもと、もっと小さい遠藤立海という旧家の坊ちゃんが出会って。

この物語、今のところバーネット夫人の『秘密の花園』を日本を舞台に置き換えた風である。林業を営む遠藤家の大きな家、常夏荘に住む病弱な立海、その遠藤林業に勤める祖父に引き取られた燿子。立海は妾の子であり。

燿子の祖父間宮勇吉、立海の年の離れた兄にあたる龍一郎(故人)の妻、照子、家庭教師の青井、それからハムイチ・ハムスケ兄弟など、魅力的な脇役たち。まことにイラっとする訳知り顔女性教師などもいる。

1980年という、特に林業などを生業とする場所ではまだまだ男性優位の、旧家の、ありがちな状況の中、青井の言う“自立、顔を上げて生きること、自律、美しく生きること”言葉を知り、少しずつ変化する精神。

2012年に刊行された本書のあと、『地の星 なでし子物語』『天の花 なでし子物語』そして今年刊行の『常夏荘物語』とある。この物語がどこへ行くのか追いかけてみる所存です。

 

三つ編み

著者 レティシア・コロンバニ

ハヤカワepi文庫

インドのスミタ、カナダのサラ、イタリアのジュリア、別々の国に住む女性三人の、全く共通点の無いそれぞれの人生が、交互に描かれる。

インドのカーストにもはじかれる不可触民スミタの生活が、とにかくひどい。トイレが国中に普及しているわけではない国で、糞便を集める。素手で。給料は残飯か、時に古着。読み止めてしばし休みましたよ、私。そんな中でも、スミタは娘ラリータにはちゃんと教育を受けさせることを決意する。

シチリアには毛髪からカツラやヘアピースを作るという業種の長い歴史があるそうだ。毛髪のほぐし、洗浄、加工を経てイタリアばかりでなくヨーロッパ全域へ発送される。百年近くこの仕事を続けている一家、姉妹の中でジュリアだけがこの家業にうちこんでいる。

モントリオールのサラは法律事務所の弁護士。二度の離婚を経て、激務の中、3人の子供を持つシングルママ。ベビーシッター無しには成り立たない生活。

境遇も国も全くかけ離れた3人の女性の人生、出会うことなど無い人生が、遠く離れたどこかで三つ編みになる。

フェミニズムを表に押し出すような描き方ではない。必ずしも女性だから、ではなく性別関係なく、さまざまな形で差別、格差というものがあり、けれども少しずつ一歩ずつ、壁を越えて行く、というような。

知らない作家だったけれど、フランス・ボルドー生まれ、小説家で映画監督で女優だそうだ。ほかの作品も読んでみたい。

 

広東語の世界 香港、華南が育んだグローバル中国語

著者 飯田真紀

中公新書

私は、1990年代後半、香港映画や香港ポップスにはまって、広東語cantoneseを学びたいと思ったけれどどこで教えてくれるものかわからず、テレビやラジオでやっている中国語(北京語mandalin)講座を聞き始めたのだった。英国領だった香港が97年に中国に返還される、という時期、ウォン・カーウァイ監督作品を始めとする映画もよく目にし、その映画で主演し、主題歌を歌ったフェイ・ウォンなどのCDもレコードショップでコーナーが作られていた時期があったのだ。

その頃、まだまだ中国は発展途上、映画の中で北京語を話す人が、田舎者扱いされるシーンも目にした。隔世の感である。

で、この本です。そうか、一般日本人にとって、あまり広東語って知られないものなのね。かつて映画で“モウマンタイ”という言葉が使われて、それだけは有名になったけれど。ナインティナインの岡村が主役の。

北京語のカケラと広東語の粒ぐらいを知っている私だが、北京人にとっては広東語は一方言に過ぎないだろうと思う。一方、広東語圏の人にとって、例えば我々日本人が漢文で習う漢詩は、広東語で読む方が正しい解釈ができる、など、誇りをもっている気がする。こちらが本家だ、みたいな思いがあるのでは。

そうか、19世紀以降、海外に移住する中華の民というのは、広東省の人がほとんどだったのか。だからアメリカの中華街では広東語が主流だったという。1965年にメリカの移民法が変わったことと、1990年代以降、大陸の中国人がどっと増えたことで変化が起こったようだ。が、やはりあちこちの唐人街ではまだまだ広東語が聞こえるらしい。

中国語の方言というのは、日本で沖縄のおばあが何を言ってるかわからない、青森弁が聞き取れない、なんてレベルではない。まあ広い国だからね。漢字圏だから字を書けば理解はできる、でも口語では???となる。大概の中国人は、にっぽん というような小さい“つ”が入る言葉を発音するのが苦手だが、広東語圏の人は普通に発音できる。上海語・台湾語ぐらいは耳に入る機会が割とあるが、聞き取れない。先日、断捨離番組の中で、中国出身の奥さん(日本語ペラペラ)が出身地の人と会話していたのは、どこの方言か見当もつかなかった。少数民族となるとまたまたまるで別。学校では普通語(プートンホア)と呼ばれる、北京語由来のかつての役人が使っていた官語を基にした言葉で教えられる、が、香港は97年より前は英語交じりの広東語、中学から先は英語中学か中国語(広東語)中学に分かれる、というシステムだった。だからまだまだ、普通語を話す率は高くないらしい。

個人的には、広東語で歌うバラードはとても美しく聞こえる気がする。

この本、横書きなので、めくり方も逆方向。中国も韓国も横書きになり、縦書きなのは日本と台湾だけかな。広東語に興味があるけどよく知らない、というレベルの人に向けて書かれている。

 

 

 

今はちょっと、ついてないだけ

著者 伊吹有喜

光文社文庫

友人が、読む気があったら、と置いていったものでね、その友人は、読み終えたらブックオフとかに売ってまた別の本を買う人だから、いつもチラシとかのカバーをかけている。売るためにはきれいにしておかなきゃね。

で、私はそのままで読み続け、あー、この話は映像化されるなあ、10年ほど話が古いけれど、そこらをアップデートして、などと思った。そしてこの投稿のために表紙の写真撮ろうと、そのカバーを外したら、なーんだ、2022年に映画化されてる。んん?このキャスティング?うーん…。

バブルの時代、『ネイチャリング・フォトグラファー』と名付けられ、世界の秘境を訪れてその景色を紹介、撮影し、焚火で食事を作る。“厚切りハムと豆のスープ、食後に舌を焼くほど熱いコーヒー”とナレーションが入るテレビ番組で名が知られていた男。バブルがはじけ、かつてまだ学生だった彼をスカウトした男の会社が倒産し、連帯保証人だった彼も莫大な借金を負う。自己破産を勧められたが、自力で15年かけて返済したばかりの男、立花浩樹。

二人部屋に入院中の母親が、もう一人の老婦人と親しくなり、息子は写真家なのだと話したのがきっかけで、その婦人の写真を撮る流れになる。が、カメラは売り払ってしまったので、携帯のカメラで写していると、婦人の息子に絡まれ。

という始まりから、昔を知る誰かしらとの偶然の出会い、そして、シェアハウスでの写真家生活が始まる。まだ配送のアルバイトを続けながら。そのシェアハウスに集まる男女はそれぞれに行き詰っていた。

そして、タイトルにつながっていくわけだが。

表紙に出ているキャストの高橋和也は誰の役?と調べたら、えー、巻島…。まあ、原作先だとしばしば勝手にイメージを描いてしまうので、この表紙写真にいるどの人も、ピンとこない。そして、なんと表紙をめくるともう一枚、元々のイラストの表紙が出てきたよ、古本屋で買った本にはこんなことが起こるんだな。映画だけ観た、ってお方、試しに原作も読んでみてね。

バブルの時代に小説家デビューし、映画化もされ、その後消えた少女いたなあ。

破墓

監督 チャン・ジェヒョン

出演 チェ・ミンシク キム・ゴウン ユ・ヘジン イ・ドヒョン

巫堂(ムーダン)と呼ばれる悪霊払いとか先祖供養とかを行う、日本で言うならイタコとかユタのようなシャーマンが、現代の韓国社会でもわりと普通に活動しているらしい。

今はアメリカに住む富豪の家族が次々に奇妙な病気にかかるということで、巫堂とその弟子に依頼が来る。先祖の墓が原因とすぐわかり、風水師、葬儀師と共にはかの場所に赴く。かなりの悪気に、お祓いと改葬を同時に行うことになる。

ヘンな展開になるんだこれが。豊臣の朝鮮出兵とかそういうあたりからの歴史的恨みごとが地下深くに渦巻いちゃったりしてるので、日本人が見るとなんだかなーでもある、が、まあ韓国の土俗、民俗を知ることができる。俳優は皆さん名優。

まあ、好き嫌いが分かれるであろうホラーオカルトエンターテインメント。重ねて言うが、俳優たちはみなうまい。

日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」」へ、音声史の旅

著者 釘抜亨

中公新書

平安時代には、現在の はひふへほ は ふぁふぃふふぇふぉ であった、というのは時に目にする。源氏物語を、当時の発音に近い読み方で朗読、ということをしている人が、そんな読み方をしているのを目にしたこともある。もっと昔は ぱぴぷぺぽ であった、ということも目にしたことがある。

その奈良時代には、日本語の母音は8つあったんだって。現在のサ行は、その頃 つぁつぃつつぇつぉ だったって。録音方法なんて無いのに、どうしてそんなことがわかるのか、というと。

万葉仮名による表記の中で、例えばコの音を表す時、己 の字を使うもの、古 の字を使うもの、単語によって必ず使い分けがある、ということは、コの発音が2種類あるということだとわかる。そして、その区別は奈良時代末期~平安時代初頭あたりで消滅しているそうだ。そんな風に現代の発音に照らして漢字が2種類使われ、どの場合もどこかの時代まではその使い方が混ざることが無い、かどうかを逐一検討する、という学問が、言語学というものか、と気の遠くなる思い。

そう言えば『光る君へ』のドラマの中で紫式部が書く文字はすべて万葉仮名なんだな、と、改めて気づく。総平仮名!片仮名の方は、漢文を読み下すための符号であったと。お経とか。

で、年経て母音が減り、発音も変化し、物語が書かれた当時はその発音通りの表音文字であったものが、読み手にとって混乱を招くものになってくる。で、現代の私達が古文として認識している漢字仮名交じり文、それを生み出したのは、藤原定家なんだそうな。鎌倉時代に至り、平安時代の文章を理解することが難しくなっていたのだそうで。

源氏物語を原文で読んだ、なんて口にしても、いやいやそれは違う!のであります。

祖父が、やかんのことをyakwanのように発音していたことを覚えている。漢字で薬缶と書くのだから、地方によってはそう発音をしていたとしても不思議は無い。けれど今の日本語にクァという発音は無い。外来語を除き。

室町時代の宣教師による日本語発音解説書、契沖、本居宣長の論、五十音というものの元が実は…などなど。

知能と研究心がもっと備わっていたら国語学の研究をしたかったかも、と思ったことがある。まことに不遜極まりないことでありました。

憑依

監督 キム・ソンシク

出演 カン・ドンウォン ホ・ジュノ イ・ソム

胡散臭い祈祷師コンビが、依頼によって悪霊払いをするところから始まる。何かと効果担当する助手がいる。え?と思うのは、祈祷師チョン博士(カン・ドンウォン)が鈴を手にして、鳴らすようなしぐさをすること。鳴らないが。

また別の依頼があり、どこか地方のさびれた気配のところに住む姉妹を訪ねる。妹に悪霊が憑いているいるという。いつもの儀式に入ろうとして、鈴を振ると、音が鳴る。実は博士は高名な祈祷師の末裔で、手にしている鈴は、本物の悪霊に対する時のみ鳴るのだ。ただし、彼には例は見えない。依頼した姉の方には霊の姿が見える。欠けた剣と鈴という呪具を手に、妹に憑依している悪鬼と戦うことになる博士たち。

別の呪術師によって降臨する天女?女神?のお姿、なんだなんだ?憑依というタイトルに間違いは無いのだが、だいぶ初めの方から笑える。グエムル(姉がちょっとペ・ドゥナに似てて)とか陰陽師とかインディ・ジョーンズとか魔術師物のアニメあれこれとか、いろいろ思い起こされる。

カン・ドンウォンを初めて観たのは何だったのか、思い出せない。ドラマだったはず。映画は?デュエリストしか観てないんだっけ?私。是枝監督の『ベイビー・ブローカー』見そびれたし。カン・ドンウォンだ、観るぞ!と思ったのに。そしてお見掛けしなかったこの年月の間に、なんだかニノに似てる感、ずいぶん長身の。

私には充分楽しめた。何かを連想させてもやっぱり韓国のホラーだし。どうやらシリーズ化するんじゃないの?という気配、そりゃそうなったらまた観ますよ。

 

西湖畔に生きる

監督 グー・シャオガン

出演 呉磊 蒋勤勤 陈建斌 王佳佳

『春江水暖』に続く顾晓岗監督作品。杭州の西湖界隈の美しい自然が描かれる一方、西湖の向こう側にはビルが立ち並ぶ都会が見えているように、現代のマルチ商法詐欺に引き込まれていく母親、阻止するために動く息子の姿。

茶畑で茶摘みをしていた母・苔花とその息子・目蓮。父は10年前に行方不明になっている。母も恋をする。相手の男の母親が怒鳴り込んできて、仕事をクビになる苔花。

友人に誘われ、高額を手にすることができるとうたうビジネスに引き込まれていく苔花。そのグループの新興宗教教祖のような謳い文句、祭りのような勢い、叫び。地味に茶摘みをしていた女が、派手な化粧や服装になり、高揚し自己肯定感に包まれていく。家を売り払って資金を作り、商品を積み上げている。足裏に貼る湿布だよ、それであれもこれも健康になるってさあ。

苔花を演じている女性、時代劇ドラマで見た顔・・・「清越坊の女たち 当家主母」だ。息子は『琅琊榜』の時にはまだ少年だった呉磊、成長を見守るハハゴコロというかババゴコロと申すかそんな気分。3歳の頃からこの世界にいるそうだ。

頑張って母を助け出す。その後の描き方はどこまでが現実か幻想か。息子は大学を出ているのになかなか良い仕事に就けない様子なのは今の中国の状況だろう。生活費はどうしている?と疑問が沸くのだが。

『目蓮救母』と言う、釈迦の十大弟子の一人が地獄に落ちた母を救うという物語をベースにしている。音楽は梅林茂。山水映画第2弾ということなので、杭州の美しい景色を舞台にしたシリーズが続くのだろう。俳優たちは南方訛りの中国語で話していた。

侍タイムスリッパ-

監督 安田淳一

出演 山口馬木也 冨家ノリマサ

“カメラを止めるな”の再来、的な評判を目にして。

幕末、会津藩士が長州藩士と刀で戦っていた、突然の雨、落雷。気が付いた時、その場所は京都時代劇撮影所。トンチンカンな下っ端役者かエキストラと間違えられ、訳も分からず歩いていると、ポスターに幕末から140年、との文字が!

なんだかんだ都合よく寺の住職に拾われ、記憶喪失男として保護される。そして、殺陣師に入門し、撮影所で斬られ役として生きていくこととなる。

心配無用之介なる役の主演俳優が出てくるんだけどさ、これ、加藤雅也にオファーしてた、でもスケジュールが合わず・・・と、言うことだったそうな。本人も残念がっていたそうな。私も残念。殺陣師の役は福本清三さんを予定していたのだけど脚本完成前に亡くなられたと。

名前を知ってる俳優さんは、あと寺の住職の奥さん役の紅萬子さんぐらい、自主製作映画なのに、その時代劇愛が共感を呼び、東映京都撮影所が全面協力。

まあ、笑いましたよ。カメ止めほどか、というと私としてはそこまででは…。同じ時に雷に打たれたのに、数十年とか数年とか時間がずれてタイムスリップする、ことがありうる、という発想がこの映画の根幹かな。