月別アーカイブ: 2012年2月

自由葬でお願いします

昨年末に引き続き、冠婚葬祭についてこだわっています。
「冠婚葬祭」の”冠”と”婚”に関しては、成人式には出席しなかったし結婚式も挙げなかったし、今までもこれからも私個人には関係のないセレモニーです。
今後私に関係してくるのは人生最後のセレモニー、私自身の葬式です。自分の葬式にはこだわってみたい。

「葬式なんてそうこだわるものでもないでしょう。世間並みにしてくれればいい」と考える人には、全くどうだっていい話ですが、私にとっては最後の自己表現、ささやかな抵抗。どうか世間並みにはしないでくれ、と言いたいのです。
黙って死んでいくと、間違いなく世間並みの葬式になっちゃいます。

「世間並みの葬式」とはどういうものか?
現在の日本の場合、90%以上は仏式で執り行われるようです。
今まで私が列席した葬式も、ほとんどは仏式。たまーに神道あり、でした。
「信教の自由」が憲法で謳われているにも関わらず、この国にはこんなにも仏教徒が多いのか!と驚きます。
しかし実態は、

「現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える日本人も多い。これは日本人が神や仏を否定しているわけではなく、何かしらそれなりに信じているが、特定の宗教組織に全人格的に帰属してはいないということである。出典《ウィキペディア/日本の宗教》」

とあるように、たいていの人は「無宗教者」であることを自覚しながらも、「世間的なしきたり」として宗教儀礼を受け入れているのが実情でしょう。

それにしても、何故葬式は仏教なのか?
「冠婚葬祭のひみつ/斎藤美奈子」によると、元来仏教は葬送儀礼を重視する宗教ではなく、葬式は村社会が執り行うことが一般的でしたが、寛永十二年(1635年)頃から、お寺が葬式に関与する傾向が強くなったという。

「すべてのはじまりは、1635(寛永12年)ごろ、江戸幕府がキリシタンの弾圧のためにもうけた寺請制度である。日本人全員を近くの寺に帰属させ、寺には寺請証文(キリシタンでないことを証明する身分証書)を発行し、宗門人別帳(各人の宗旨と檀那寺を記した一戸ごとの住民基礎台帳)に捺印する権限を与える。」

寺請制度以降、僧侶が寺に定住するようになり、自分とこの檀家の葬儀や法事を営むことで定期的な収入を得られるようになり、布教の必要もなくなり、そして

「寺請制度が確立した1700年頃には、位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式には必ず僧侶が関与しなくちゃダメとか、戒名をつけろとか、何年かごとに年忌法要をやれといったルールが設けられた。」

つまり、このころから葬式はビジネスとして育てられてきたのでしょう。

「世間並みの葬式」には、自動的に戒名がついてきます。
戒名は本来、「仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして……多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる/ウィキペディア:戒名」というもの。
しかし葬式さえすれば、故人に生前信仰があろうがなかろうが、戒名が与えられます。これがまた料金によってランク付けがあるという困ったしろもの。
グレードの高い戒名にすると、あの世で何かいいことがあるとでもいうのかしら?
死後の世界も現世同様格差があるってわけだろうか?
人間死んだら皆平等ってわけにはいかないの?
遺族にしてみれば、グレードの低い戒名、つまり安い仏門入門証を購入することは、故人をないがしろにしているような気になったりするし、「戒名は結構です」とも言いにくい雰囲気が、「世間並みの葬式」にはあります。

故人と生活を共にしていた家族であれば、故人が生前「葬式はこういうのがいい」と言っていたことなどを考慮して、精一杯故人の趣向に沿った葬式になるようにしたいと思う。
しかし、葬式に関しては結婚式ほどには好き勝手できない。ことに宗教色の無い葬式(自由葬と呼んだりするらしい)は、まだまだ市民権を得てはいないようです。
「私の葬式には、お線香も玉串も十字架も要らないから。」
と娘に頼んだところ、「それらを全て文書で残して欲しい。できたらFacebookで。」と言われました。
「母の遺言により、このような葬儀スタイルになりました。」と説明しなければ、「こんな葬式をするなんて、なんて親不孝な!」と世間に非難されるのは、残された子供たちだと言うのです。

そんなわけで、自分の葬式にこだわるなら、遺言状を準備した方が良さそうです。いえ、遺言状というとちょっと物々しい。まあ「私の葬式についてのお願い」という程度のことを、今年はFacebookに残しておこうと考えています。