月別アーカイブ: 2010年6月

「木曜日の子供 」テリー ホワイト

mokuyoubi出版社: 文藝春秋 (1991/09)


木曜日の子供は遠くまで行く―。マザーグースはそう歌う。たまたまそんな星の下に生まれたために旅に出なければならない家出少年が、ひとりの殺し屋に出会う。が、この凄腕の殺し屋も、よくよく聞けば両親を航空機事故で失い、たった一人の弟を植物人間にされて敵討ちを心に誓っている。彼もまた“木曜日の子供”なのだろうか?

内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)


ブックオフでたまたま見つけた本です。テリー・ホワイトの処女作「真夜中の相棒」も、やはりたまたま古本屋で購入して、随分以前に読んだことがありました。どちらも中年の殺し屋と無垢な若者または少年との疑似家族愛が切ない物語です。

「木曜日の子供」というタイトルはマザー・グースの歌からとられているそうで、あとがきにその歌が紹介されていました。

            「マザー・グース」

月曜日の子供は顔がきれい、
火曜日の子供は気品にあふれ、
水曜日の子供は悩みが多く、
木曜日の子供は遠くまで行き、
金曜日の子供は愛情ゆたか、
土曜日の子供は働いて暮らしを立てねばならぬ、
けれども、安息日に生まれた子供は、
かわいくて、賢くて、人がよくて、ほがらかだ。

何でしょうね、この歌は。不思議な内容です。でも何だか気になります。私は土曜日の子供なのか?

「あなたの誕生日は何曜日ですか?」で誕生日の曜日を調べてみました。私は月曜日の子供でした。・・・で?

追記:何曜日生まれかを調べるのに、占い関係でないサイトにリンクを張っていたのですが、何故か次々リンク切れしてしまいました。以下に万年カレンダーサイトをリンクしておきます。

あの日は何曜日?  10000年カレンダー

追記:2023年7月20日

曜日調べのサイトが次々リンク切れになってしまいました。
今日見つけたサイトは「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「その日は何曜日?」。
名前の通り、 “ちょっと便利” で “ちょっと役に立つ” いろんなコンテンツをてんこ盛りに詰合わせた面白いサイトです。

【みんなの知識 ちょっと便利帳】⇒その日は何曜日? [曜日調べ]
https://www.benricho.org/nenrei/youbi.html参照

生現!

先日イタリア×スロバキア戦を見ていて思ったのですが、外国の選手はとても目立つタトゥを入れている人が多いですね。昨夜のイングランド×ドイツでも、ベンチにいるベッカムの腕からチラリと覗く青い模様が気になりました。

日本ではタトゥと言えば刺青。刺青と言えばその筋の人という連想があるから、反社会的でマイナーなイメージが強い。海外のノリでサブカルチャーだとかファッションだとか、スキンアートだとか言われても、なかなか受け入れがたいのが実情だと思います。
私はすごい怖がりなので、丸太のように太い二の腕に蠍だとかムカデだとかタトゥをいれている人がいたら、たぶん3mも近づくことができないでしょう。あの手のタトゥは人を威嚇するために入れているのだと思います。
しかし、「日本文化に影響された外国人のタトゥー 」という動画に紹介されている人達は、人を怖がらせる意図はないように見えます。
座右の銘とか自分の信条とかを生涯忘れることのないよう、体に刻みこんでおこうとしているか、あるいは私みたいな、おっちょこちょいな方々なのか。どうしてその字を選んだのか、尋ねてみたい気もします。

「日本文化に影響された外国人のタトゥー 」

以前聞いたので面白いと思ったのは、項に「祖母」というタトゥ。生きているおばあちゃんならほのぼのですが、亡くなったおばあちゃんを偲んでなら、しんみりした気分になりますね。でも本当は「祖国」といれたかったのでは?
検索していると、「漢字の意味を間違っているよ!」と指摘しているアメリカのタトゥ屋さんがありました。
それによると「色」を何故か“Wild”と勘違いしてタトゥしているとか。
他にも「子」を“spirit”。
「夕」を“child”。
「天」を“To Die Young”(これは夭折の夭と間違えているらしい)。
「荒」は“Passion”だと思っている人がいるようです。

それから、「生現」というタトゥ。これは“Live For Today” って意味だと思っているとのことです。「生」は「live」「現」は「now」、そこからできたアメリカ熟語らしいです。
そのタトゥ屋さんは「生現とは「生きて現れる」、あるいは「生き返る」って意味で、ゾンビを見るみたいなことだよ」と注意しています。

話はそれますが、“Live For Today”っていい言葉ですね。私も座右の銘にして、体でなく心に刻んでおきたい。
昔、ザ・テンプターズが「今日を生きよう」というタイトルで歌っていたのを思い出します。私は原曲の方が好きでした。バンド名は知らなかったけれど。
今調べてみると、原曲はアメリカのバンド“ グラスルーツ ”原題は「Let’s Live for Today 」です。懐かしの曲をYOU TUBEで。時代を感じますねえ。

 

「わが心臓の痛み」マイクル コナリー

wagasinzou出版社: 扶桑社 (2002/11)

内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

連続殺人犯を追い、数々の難事件を解決してきたFBI捜査官テリー・マッケイレブ。長年にわたる激務とストレスがもとで、心筋症の悪化に倒れた彼は、早期引退を余儀なくされた。その後、心臓移植の手術を受けて退院した彼のもとに、美しき女性グラシエラが現われる。彼女は、マッケイレブの胸にある心臓がコンビニ強盗に遭って絶命した妹のものだと語った。悪に対する怒りに駆り立てられたマッケイレブは再び捜査に乗り出す。因縁の糸に繰られ、事件はやがてほつれ目を見せはじめるが…。 

映画と読書」で紹介されていたマイクル・コナリーの「暗く聖なる夜」を読んでから、この作者のハードボイルドタッチが気に入っています。
少し細か過ぎるかなと思うほど、ディテールを丁寧に書き込んでいます。小説の中で登場人物の一人が推理小説を読んでいる場面があるのですが、「今西警部、捜査す」という日本のミステリーです。これがなんと松本清張の「砂の器」のことだと注訳がありました。こういう、ちょっとした「へぇ~」を見つけるのも、海外小説の面白さです。
「わが心臓の痛み」は原題の「Blood work」のタイトルで映画化されたそうです。文庫のカバーにもなっているので分るようにクリント・イーストウッド主演。及び監督・制作も。
クリント・イーストウッドと言えば、私が子供の頃初めてカッコイイ!と思ったヒーローです。「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」、その後の「ダーティ・ハリー」シリーズ。思えばこの頃に私の「ハードボイルドでアウトロー」な好みが形成されたのでしょう。原点はクリント・イーストウッドに違いありません。
彼の映画を最後に観たのは「許されざる者」。夫と二人でDVDで観ました。夫は「いい映画だ。」とかなり感動していましたが、私は「我がヒーローも歳をとったなあ」としみじみしたものです。
ところで、今夜は「歳をとるのは怖い」と思い知らされることがありました。
ブックオフで次なるマイクル・コナリーを手に入れて嬉々として車で帰宅する私。大きな交差点の最前列で信号待ちしていると、車をぶつけられました。
信号待ちでぶつけられるというと、追突されたのだろうと思うでしょう?違うんです。左折するつもりだったらしい車が、大回りに曲がって、信号待ちしている車の列に突っ込んできたんです。とろとろしたスピードで、ひょろひょろと私の車の正面左寄りにやってきてコトンとぶつかり、ガリッとボディをこすって、私の車と隣の車の間をすり抜けようとしました。運転しているのは80歳をとうに過ぎていると思われるご老人でした。
その時信号が青になったので他の車はそのご老人の車を避けながら、いっせいに走り出し、動けないのは私の車だけ。バックミラーで見てみると、そのご老人の車はするすると私の後方を走って行き、そのまま左車線を逆走していくようでした。一人取り残された私。仕方が無いのでそのまま帰ってきました。
高齢者の危険運転のことがニュースになったりしますが、本当に怖いですね。今夜を境にその方が運転をやめる決心をしてくれたらいいと思うのですが。
「歳をとるということは昨日までできていたことが、今日からはできなくなること。」そうなんですねぇ。

「探す」飯島 耕一 

生活居住圏も生活パターンも全然重なることのない人と、予期せぬ場所でばったり出会って、驚くことがたまにあります。

そんな時、「あの店をあと1分出るのが遅かったら、あるいは早かったら、決して出会うことはなかったのだ」などと思うと不思議な気持ちになりますよね。BGMにはあの曲が流れてきそうです。

~あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
僕らは いつまでも 見知らぬ二人のまま~

昨日の夕方がそんな日でした。と言っても偶然出会ったのは親戚の女の子。「ラブストーリーは突然に」は流れてこなかったけれど、やっぱり不思議だな、偶然ってやつは、と思わずにはいられません。

人との出会いは、考えてみるまでも無く、偶然のなせるものです。あの時、思い切って会社を辞めなければ、出会うことのなかった人、あの駅で乗り換えなければ、会うこともなかった人、、、、、、
自分の力の及ばないところで用意されている出会いの積み重ねで人生は形成されていくのだと、つくづく思います。

そういえば「出会う」がキーワードの、好きな詩があったっけ、と思い出して古いノートを引っ張り出してみると、飯島耕一さんの「探す」という詩を書き写してありました。改めて読んでみると、「出会う」というよりは「はぐれてしまった」詩のようですが、好きな詩なので思い出したついでに紹介します。

「探 す」

飯島 耕一

おまえの探している場所に
僕はいないだろう。
僕の探している場所に
おまえはいないだろう。

この広い空間で
まちがいなく出会うためには
一つしか途はない。
その途についてすでにおまえは考え始めている。

これは、出会った二人の愛がはぐれてしまった詩なのか、それとも人生の中ではぐれてしまった自分自身を探しているのか。短い詩というのは、思わせぶりです。