ゴールデンウィークの最中”こどもの日“、予定の時間までの暇つぶしに入った書店で手に取り、思わず購入してしまいました。
この本は、「ああるの映画と読書」で最近紹介され興味をもっていたもの。
ネットで古本を購入しようと「お気に入りリスト」に入れていたけれど、たまには小さな贅沢、定価で買ってもいいじゃないか、ゴールデンウィークなんだから。と自分に言い訳しつつ530円(税別)の新刊を買う私は、間違いなく「下流」に住む人間です。
じゃあ「上流」にはどんな人が住んでいるのか?
たとえば与党政治家たちと財界人、高級官僚たちの「閨閥」。
彼らは集団全体でリスクヘッジする「相互扶助組織」を形成し、「集団として生き残る」という明確な目標を掲げる「強者連合」に属する人たちであるという。
こういう集団が私たち社会の上層にいて、社会を回している。(どうりでアベノミクスの恩恵は下流までは流れてこないわけです。)
彼らは利益と結果責任をシェアする代わりに自己決定をすることはできないらしい。進学、就職、結婚、あれやこれや、属する集団が集団の利益のために決定するらしい。
それと対極に、「相互扶助組織」に属することができない個人は、自分自身のことは自分で決定し、結果に対し自分で責任をとるしかない。
「獲得した利益をシェアする仲間がなく、困窮したときに支援してくれる人間がいない人間」は、このリスク社会においては社会的弱者である、という。
なるほどなあ。と感心している場合ではない。社会的弱者とは私のことですよ。
社会的弱者の立場からこの本を読み進めると「リスクヘッジというのは一人ではできない」という理論は十分納得できます。でも相互扶助したくても共倒れになってしまうという現実がある、という側面は無視されて書かれているように感じます。
弱者は「獲得した利益をシェアする仲間がなく、困窮したときに支援してくれる人間がいない」のではなく、「仲間とシェアできるほどの利益を獲得できず、困窮している人を支援することもできない」現実の中にいるのです。
著者の視点はどこにあるのでしょうか?
そもそも本書の第1章に「学びからの逃走」や「労働からの逃走」について、「主体的決意を持って、決然と逃走する」とし、これが「下流社会」への階層降下を意味し、下降志向の社会集団が登場してきた、と他の学者の言葉を借りて社会分析をしていますが、本当にそうなのでしょうか?
本当に主体的決意を持って学習をやめる子どもが増え、主体的決意を持って労働をしない人間が増えているのでしょうか。
私も身近に、学級崩壊している小学生のクラスを知っています。授業中に走り回ったり、椅子や机の上に乗って騒いだりする子どもが何人かいます。その子たちは、主体的決意を持って、学習から決然と逃走しているのでしょうか?
「教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる」と言われると、ホントにそうかなあ、って疑問に感じます。まあそう考える子どもや親が全く居ないとは言い切れないけど、著者がそう決めつけているだけなのでは?
「労働からの逃走」の例として「正社員になると辞めにくくなるからアルバイトのままがいい」という若者や、「責任あるポストに就いたら自由が無くなる」という理由で会社を辞めた若者の話がでてきますが、理由はそれだけでしょうか?仮にそうだとして、本当にそんな若者ばかりでしょうか?
日本のニートは「社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず、子どもたちが自主的にその機会を放棄している」と著者は言うのですが、本当に、本当にそうなのですか?ニートってそんな理由でニートになっている?
「現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです」って、それ、きみまろのネタじゃなくて?
読むにつれ疑問ばかりが膨らんでいくのですが、最終章まで読んでも納得できる根拠は見いだせませんでした。
どこかで見聞きしただけの一面的な話に終始し、その話に現実感の伴わない持論をくっつけているだけ。
でなければ、下流に浮かぶ木葉のあれこれを川岸で眺めて説教している人、そんな印象です。
私にとっては突っ込みどころ満載の本ではありますが、最初からぐいぐい話に惹きこみ一気に聞かせる、語り口のうまい人だなあとも思います。
「おっ!」と心に引っ掛かるワードがいくつもあって、たとえば「世界そのものが穴だらけ」とか「不快という貨幣」とか「『師であることの条件』は『師を持っている』こと」とか。上手いこと言うなあ、って思います。
講演会場でリアルに聴けば突っ込みを入れる隙もなかったかも。
講演と質疑応答を文章に起こして本にしちゃうと、「意味の穴だらけ」状態になるのも仕方がないのでしょう。