ハヤカワ文庫SF(1986年7月)
恒星タウ・セティをめぐる二重惑星アナレスとウラス―だが、この姉妹星には共通点はほとんどない。ウラスが長い歴史を誇り生命にあふれた豊かな世界なら、アナレスは2世紀たらず前に植民されたばかりの荒涼とした惑星であった。オドー主義者と称する政治亡命者たちがウラスを離れ、アナレスを切り開いたのだ。そしていま、一人の男がアナレスを離れウラスへと旅立とうとしていた。やがて全宇宙をつなぐ架け橋となる一般時間理論を完成するために、そして、ウラスとアナレスの間に存在する壁をうちこわすために…。ヒューゴー賞ネビュラ賞両賞受賞の栄誉に輝く傑作巨篇。(「BOOK」データベースより)
“ヒューゴー賞、ネビュラ賞、両賞受賞!”に魅かれて、作者もストーリーも知らないまま読み始めました。
作者アーシュラ・K・ル・グィンは、SF界の女王と称され、日本でアニメ化された『ゲド戦記』の原作者だそうです。
本書「所有せざる人々」の主人公は、地球から11光年の彼方にある『アナレス』という惑星の科学者シェヴェック。
アナレスは、隣の惑星『ウラス』から政治亡命してきた人々が移住してつくった、歴史の浅い、いまだ開拓途上にある惑星です。
アナレスでは、人々は何も所有せず、互いに全てを分け合って暮らしています。荒涼とした砂漠があり、飢饉があり、貧しい世界のイメージです。
一方、隣の惑星『ウラス』は、長い歴史があり豊かな文明があり、人々はあらゆるものを所有して暮らしています。イメージとしては現在の地球の一部の先進国、といったところでしょうか。
物語は、主人公シェヴェックが、アナレスからウラスに旅立つところから始まります。
読み始めは、あまり面白みを感じられませんでした。何だかイソップの「田舎のネズミと町のネズミ」みたい。二つの異なる文化を引き比べて、どちらが幸せか?といった寓話の宇宙バージョンかな、と。
けれど、読み進めるうちに、シェヴェックの人生やアナレスの生活に惹きこまれていき、SF小説を読んでいるというよりは、宇宙のどこかに実在する一つの惑星の歴史と、一人の異星人の伝記を読んでいるかのような気分になりました。
惑星アナレスは、アナキズムの社会です。
作者は、政府が無くても秩序のある社会を、具体的に細かく理念と理想を込めて構築しています。
そして、そこに住む人々の暮らしぶりや想いや苦悩を、鋭い社会批判を以て描き出しています。
作者の描くアナキズム社会は、国家が存在せず、政府も警察機関もない小規模な共同体の集まりである社会。権力が無いから命令されることも服従することもない。
労働も衣食住も全てを分け合い、誰も何も所有しない。全ての人間が平等である社会。
平等に自由であり、そして平等に貧しい社会です。
作者は、渾身の力で惑星アナレスにユートピアをつくりだそうと模索しているように思えます。
果たして惑星アナレスが人類にとってのユートピアなのか?というところも、本書の読みどころです。
本書のもう一つのテーマは「時間」です。
主人公シェヴェックは「時間は、線であると同様に、惑星が公転しているように循環している。」と考え、時間の「連続性」と「同時性」をまとめて証明できる「一般時間理論」を完成させることに人生をかけ、長年足掻き苦しむのです。
この「一般時間理論」が完成したら、宇宙空間で時間的にずれのない通信が可能になるという。シェヴェックは惑星と惑星が同時的に繋がることのできる宇宙を、つくりだしたいと願っているのです。まるでインターネットで繋がっている現在の地球のように。
ところで、アナキズムについて言えば、1968年から1970年、学生運動というものが日本にあった頃、「右翼」や「左翼」という言葉と共に、私の耳にも聞こえてきたイデオロギーでした。
「アナキズムは、『国家を含む権力装置を持たない』という思想や主義の総称である(ウィキペディア「アナキズム」を参照)」とありますが、当時の私は単純に「無政府主義」と捉えていました。
ちょうど反抗期の中高生だったので、国家権力を我がものにしたがるウヨクやサヨクより、権力に服従することのないアナーキーな思想は、束縛がなく自由で、ちょっとカッコ良く思えたものです。
しかし、この「所有せざる人々」を読むまで、「国家を含む権力装置を持たない社会」って、いったいどうやって運営されていくのか?どんな暮らしになるのか?なんてことを、私は具体的に想像したことなど一度も無かったことに気づきました。
具体的なビジョンを持たないイデオロギーなんて、あまり意味がありませんね。
自分ならどんな社会をユートピアとするか、自身に問いかけ想像することが大事だと、この本は改めて気づかせてくれました。