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  • 5冊まとめて、ちょっとだけ読書感想。

    本を読み終えて、すぐにブログに感想を書けばよいのだけど、それができずに本だけが溜まっています。あれも書きたい、これも書きたい、でも時間が経ち過ぎて記憶がどんどん薄れていく。で、今回は忘れ去らないうちに5冊まとめて、書き出してみようと思います。

    『ベイジン(上下)』
    真山 仁/幻冬舎文庫
    2010年4月発行

    「お願いだ、俺にこの発電所を停めさせてくれ」

    『ベイジン』とは北京のことで、英語ではBeijingと表記するとのこと。
    舞台は、北京オリンピックを目前に控えた中国。
    冒頭のセリフは、北京オリンピック開会式に合わせて運用を開始させるという原子力発電所を建設するために、中国へ招へいされた日本人技術者、田嶋の必死の叫び声です。
    電源喪失、ベント操作、海水注入、といった事故場面の描写は、否が応でも福島第一原発の事故を想起させる物語ですが、作品が書かれたのは事故前の2008年。
    図らずも予言の書となってしまった感があります。

    「『ベイジン』は、我々がけっして忘れてはならない希望について書いた小説です。
    21世紀は「諦めの時代」なのかと思ってしまうことがあります。努力しても頑張っても報われない。何かに果敢に挑むより、最初から闘わず諦めてしまう。でも諦めからは何も生まれない。
    私はそう信じています。」

    (Amazonの商品説明、「著者からのコメント」)

    『ぐるぐるまわるすべり台』
    中村 航/文春文庫
    2006年5月発行
    第26回(2004年) 野間文芸新人賞受賞

    「黄金らせんはオウム貝の殻や、ヤギの角などに現れることでも知られています。生物の成長というのはすなわち、相似な変形の繰り返しであるという原則が、このことからもわかります。つまり黄金比は物事が成長するときの普遍的な比率なのです。それゆえに我々は美しいと感じるのかもしれません。」

    上記は、老教授が建築概論を教える講義室の一場面。こんな授業を受けてみたいものだと思いました。静かで贅沢な時間。
    物語は、主人公が大学を中退するところから始まります。
    彼は、塾の講師をしながら、バンドメンバー募集専用サイトでバンド仲間を探すのです。
    「熱くてクール、馬鹿でクレーバー、新しいけど懐かしく、格好悪いくらいに格好いい、泣けて笑えるロックンロール。拡大と収縮、原理と応用。最高にして最低なメンバーを大募集。19歳」
    彼がメンバーへの課題曲に選んだのが、ビートルズの「ヘルター・スケルター」
    「ヘルター・スケルター」は、「しっちゃかめっちゃか」というような意味合いに訳されますが、元々の意味は、「らせん状のすべり台」のことだそうです。
    毒気の強いニュースばかりが目につく世の中にあって、久々に毒気も悪意も一切ない青春物語を読んだなあって感じです。
    主人公は、とてもナイーブ。
    若い頃は私だって、いまみたいじゃない、もっともっとナイーブだったと思う。そして“若い”って昔も今も結構シンドイことだって思います。

    『火星ダーク・バラード』
    上田 早夕里/ハルキ文庫
    2008年10月発行
    第四回小松左京賞

    「人類に進化なんてものはない。ただ、環境への過剰な適応があるだけよ。」

    舞台は火星。
    殺人容疑をかけられた火星治安管理局員の水島と、生まれつき他人の感情を読む能力のある少女、アデリーンとのロマンスを主軸とした、ハードボイルドタッチのSFサスペンスです。
    アデリーンはプログレッシブと呼ばれる新人類。
    プログレッシブは、宇宙のいかなる過酷な環境にも適応できるよう、遺伝子操作によってデザインされて生み出されるという。
    「重力変化、温度変化、宇宙放射線、酸素濃度、などの異なる環境に耐え、寿命は長く、他者と不毛な争いをせず、優れた共感性を持ち、より高い知性を備えた人類」をつくるために・・・・。

    人類が生き延びるには、もう宇宙に出ていくしかない未来が、いつかきっとやってくるのでしょうね。
    2023年、人類火星移住計画」によると、火星移住計画「マーズワン・プロジェクト」は、すでに現実発進しているようです。(→http://www.tel.co.jp/museum/magazine/spacedev/130422_interview02/index.html
    第1回目チームの飛行士4人を募集したところ、行ったら帰ってはこれない片道切符のミッションにもかかわらず「希望者は全世界から20万人にも及んだそうで、昨年末の12月30日、移住希望者の中から1058人の候補者が選出された。その中には日本人10人も含まれている」(「2025年、火星への片道切符の旅。日本人10人が最終選考に入る。」→http://karapaia.livedoor.biz/archives/52150116.html参照)そうです。
    こんなにも勇気と犠牲精神にあふれた人たちがいるなんて、すごい!それだけでも人類の未来に希望が持てる話です。
    ただ、「2023年火星移住計画“MarsOne”は夢の話だろうか」を読むと、技術的な不安要素も多く、お隣の星へ行くのも容易ではありません。
    地球で死ぬも火星で死ぬも同じと言えば同じだけど、火星での開拓生活がどれほど過酷なものになるのか、想像もつかないところが怖い。

    『文章読本さん江』
    斎藤 美奈子/ちくま文庫
    2007年12月発行
    第1回小林秀雄賞

    「服飾史と文章史には、共通した大きな原則がある。
    第一に、衣装も文章も、放っておけばかならず大衆化し、簡略化し、カジュアル化するということである。」

    「服だもん。必要ならば、TPOごとに着替えりゃいいのだ。で、服だもん。いつどこでどんなものを着るかは、本来、人に指図されるようなものではないのである。」

    文章読本とは、「文章の上達法を説く本」のことを言う。
    古くから谷崎潤一郎とか三島由紀夫とか、名だたる文豪たちが文章作法書として「文章読本」を書いてきたらしい。
    本書は明治から現代にいたるまでの「文章読本」を多数取り上げ、文例をあげて(この文例が面白い!)、検証していく「文章読本」の歴史書みたいなもの。それによって文章というものが、時代とともにどのように変遷してきたかよく分かる。そして、いつもながら斎藤美奈子さんの文章は痛快!気持ちいい。

    本書を読めば文章が上達する、わけでは決してないですが、小中学校の頃、作文が嫌いだった、という皆さんにぜひとも読んでいただきたい、お薦めの一冊です。
    私も作文が大嫌いでした。
    「嫌い」の一番の理由は、先生の「思ったことを素直に、あるがままに書きなさい」っていう言葉だったと思うのです。私の小学生の頃はそういう指導でした。
    これを「作文の私小説化」と斉藤美奈子さんは言う。
    まったくその通りです。

    子供の頃の私には、自分の身の回りの狭い範囲のことしか題材がなく、それを書くということは、プライバシーを先生に覗かれるみたいで、すごく抵抗がありました。
    大人になって、ブログというツールを手に入れた現在、書いたものをまず先生に見せる必要がないことが、とてもありがたい。

    『喪失』
    モー・ヘイダー/ハヤカワポケットミステリーブックス
    2012年12月発行
    2012年度アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞

    セラピーセッションで持ち上がった問題のひとつは、コーリーがジャニスを伝統的な妻ではないと感じることがあるという点だった。
    テーブルにはいつも夕食が用意され、朝はベッドまで紅茶が運ばれるにもかかわらず。
    ジャニスが仕事と子育てを両立させているにもかかわらず、コーリーはなおも重箱の隅をほじくるのだ。
    家に帰ったときに、焼き上がったばかりのケーキがあってほしいとか。弁当を持たせて、何なら昼食時に喜ばせてくれるちょっとしたラブレターも添えてほしいとか。

    イギリスの伝統的な妻とはなんと大変なことか、と驚きました。
    お弁当にラブレターを添えなくて済む分、日本の良妻賢母と呼ばれる主婦の方がまだましとさえ思えます。
    ちょっと大袈裟に書いているんじゃないの?と思い「イギリスの家庭」で検索してみると、「家族に関する国際調査」(http://www.suntory.co.jp/culture-sports/jisedai/active/family/2_2.html参照)というサイトがありました。
    それによると、イギリスも「急激な単身化・単親化と離婚率の上昇」があり、伝統的な家族形態は崩壊しつつあるとのこと。しかし仕事より家庭を大事にし、家族と密接な関係を持とうとする姿勢は、今も変わらないらしい。
    女性の家事分担が大きいが、最近では「男性にも家事をすることが期待されていて、育児をしない男性は同性からも不謹慎にみられる」とあります。先進国と言われる国はどこも似たような状況のようです。
    まあ、これは、作品の内容とはあまり関係のない話ですが。

    「モダンガール論」斎藤美奈子

    モダンガール論/文春文庫
    発行/2003年12月

    米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」で紹介されて知った本なのですが、米原万里さんも指摘している通り、タイトルで損をしているかもしれません。
    読む前は、「大正時代のコギャル論」といったものを想像して、お手軽なサブカルチャー本かなと。

    しかし、読んでみると、明治から大正、昭和、20世紀100年間の女性の歴史。驚きも感動も笑いもある痛快な一冊でした。これ以後、私は斎藤美奈子さんに嵌ってしまいました。

    「女の子には出世の道が二つある。立派な職業婦人になることと、立派な家庭人になること」「颯爽としたキャリアウーマンと優雅なマダムのどっちが魅力的な人生か。結婚するのと仕事をつづけるのとどっちが得か。両方とも手に入れる良策はないか。片一方を断念したら損をしないか」という女の子の出世願望を、100年の歴史の中で見ていく。コンセプトは「欲望史観で女の子の近代を読む」です。
    そしてモダンガールの定義は「欲するままに万事を振舞う女」「我慢しない女」

    著者が膨大な資料を読み解き引用しているので、その時代時代の女性たちの生の声が聞こえてくる本となっています。その声は現代の私たちの悩みとも共鳴します。
    たとえば「育児と職業の両立、職場の待遇差別から主婦の自立論」などなど、現代の私たちが直面しているような問題は大正時代からすでにあった。
    しかし、そんな問題を声に出して訴えることができたのは、ほんの一握りの恵まれた女性だけ。「ブルジョア婦人のぜいたくな悩み」でしかなかったという。
    ほとんどの平民女性は自分の人生など、どうにもままならない貧困の中にいました。
    当時は「『性差別』よりも、『階級的な矛盾』のほうが、はるかに深刻だった時代」だったといいます。

    現在を見渡してみると、「高度経済成長期」(1960年所得倍増計画から1973年第一次石油ショックまで)を経て、1980年代「国民の90パーセントが中流意識をもっている」と言われるまでになった日本ですが、バブルがはじけ、いまや経済格差社会。
    21世紀はまた階級社会に逆戻りってことでしょうか?

    後書きで著者は「21世紀の課題は、『出世を目指すか、出世から降りるか』である」と書いています。
    社会経済の変化に、人の意識・思想は左右されてしまうものですが、まだ選択の余地があるだけ、私たちの祖先の時代よりマシかもしれませんね。

    ところで、蛇足ながら、「結婚の条件/小倉千加子著」の中に「主人がなくなってからも、残された家族が30年間まったく働かずに食べられる家をブルジョアという」とあります。
    ひえ~、です。

    「結婚の条件」小倉千加子

    「結婚の条件」小倉千加子/朝日新聞社
    発行/2003年11月

    以前、斎藤美奈子さんの「モダンガール論」を読んで、女性史というジャンルに興味を持ったのですが、その斎藤美奈子さんが「本の本」で以下のような書評を載せていたのが、小倉千加子著「結婚の条件」。

    女性の憧れをかきたてるカリスマミセスにもはやりすたりがあるらしく、ハイソ系の君島十和子の次に来ているのはナチュラル系の雅姫である。(・・中略・・)ままごとみたいな家庭生活の一端を見せるのが、いわば彼女の仕事であり、ロンドンやパリへの取材も娘同伴。それで麻と木綿と毛糸が好き、とかいってんだからいいわよねと凡人はひがむ。
    にしても、なぜこんなカリスマミセスが次々登場してくるのか、そんな疑問にズバリと答えてくれるのが小倉千加子『結婚の条件』だ。(・・中略・・)男は収入、女は容貌。結婚とはカネとカオの交換だと小倉はいいきる。
    「本の本/斎藤美奈子」より抜粋

    カリスマ主婦ねえ。なんでそんなのが受けるのか、私も不思議に思っていました。
    この本は、女性の結婚観の変遷を検証し、現在の晩婚化、少子化の原因を読み解く、真面目でちょっとミーハーな学問書です。
    本にはたくさんの女性が登場しますが、その一人、ある未婚女性ディレクターはきっぱり言います。
    「女は真面目に働きたいなんて思っていませんよ。しんどい仕事は男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」
    平成の未婚女性も、昭和に結婚して現在中高年となった既婚女性も、「分かる、分かる」と頷ける現実が、ある意味身も蓋も無い本音が、満載の本です。

    先日、小学2年生の双子女児と、映画「ジョン・カーター」を観ました。
    この映画は100年前に書かれた、南北戦争の元南軍騎兵大尉ジョン・カーターが、火星のプリンセスを救うため、異星人たちと戦う勇者の物語です。
    映画を観終わったあと、双子姉がポソっとつぶやきました。「男って女のために頑張るんだね」
    恐るべし、7歳児。見るところは見ている。

    この子が結婚する時代には、どんなことが「結婚の条件」になっているのか、気になります。
    小倉千加子さんは、日本は晩婚化国、少子高齢国というより、将来は非婚国に移行していくと予想していますが、果たして?

    まあ、どんな時代であろうと、勇者は 「上澄みを吸って生きていこうとする女」を、わざわざ命をかけて救いには来ない。それに、火星のプリンセスだって「絶世の美女で、勇気と情熱のある戦士」という設定だし。

    自由葬でお願いします

    昨年末に引き続き、冠婚葬祭についてこだわっています。
    「冠婚葬祭」の”冠”と”婚”に関しては、成人式には出席しなかったし結婚式も挙げなかったし、今までもこれからも私個人には関係のないセレモニーです。
    今後私に関係してくるのは人生最後のセレモニー、私自身の葬式です。自分の葬式にはこだわってみたい。

    「葬式なんてそうこだわるものでもないでしょう。世間並みにしてくれればいい」と考える人には、全くどうだっていい話ですが、私にとっては最後の自己表現、ささやかな抵抗。どうか世間並みにはしないでくれ、と言いたいのです。
    黙って死んでいくと、間違いなく世間並みの葬式になっちゃいます。

    「世間並みの葬式」とはどういうものか?
    現在の日本の場合、90%以上は仏式で執り行われるようです。
    今まで私が列席した葬式も、ほとんどは仏式。たまーに神道あり、でした。
    「信教の自由」が憲法で謳われているにも関わらず、この国にはこんなにも仏教徒が多いのか!と驚きます。
    しかし実態は、

    「現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える日本人も多い。これは日本人が神や仏を否定しているわけではなく、何かしらそれなりに信じているが、特定の宗教組織に全人格的に帰属してはいないということである。出典《ウィキペディア/日本の宗教》」

    とあるように、たいていの人は「無宗教者」であることを自覚しながらも、「世間的なしきたり」として宗教儀礼を受け入れているのが実情でしょう。

    それにしても、何故葬式は仏教なのか?
    「冠婚葬祭のひみつ/斎藤美奈子」によると、元来仏教は葬送儀礼を重視する宗教ではなく、葬式は村社会が執り行うことが一般的でしたが、寛永十二年(1635年)頃から、お寺が葬式に関与する傾向が強くなったという。

    「すべてのはじまりは、1635(寛永12年)ごろ、江戸幕府がキリシタンの弾圧のためにもうけた寺請制度である。日本人全員を近くの寺に帰属させ、寺には寺請証文(キリシタンでないことを証明する身分証書)を発行し、宗門人別帳(各人の宗旨と檀那寺を記した一戸ごとの住民基礎台帳)に捺印する権限を与える。」

    寺請制度以降、僧侶が寺に定住するようになり、自分とこの檀家の葬儀や法事を営むことで定期的な収入を得られるようになり、布教の必要もなくなり、そして

    「寺請制度が確立した1700年頃には、位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式には必ず僧侶が関与しなくちゃダメとか、戒名をつけろとか、何年かごとに年忌法要をやれといったルールが設けられた。」

    つまり、このころから葬式はビジネスとして育てられてきたのでしょう。

    「世間並みの葬式」には、自動的に戒名がついてきます。
    戒名は本来、「仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして……多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる/ウィキペディア:戒名」というもの。
    しかし葬式さえすれば、故人に生前信仰があろうがなかろうが、戒名が与えられます。これがまた料金によってランク付けがあるという困ったしろもの。
    グレードの高い戒名にすると、あの世で何かいいことがあるとでもいうのかしら?
    死後の世界も現世同様格差があるってわけだろうか?
    人間死んだら皆平等ってわけにはいかないの?
    遺族にしてみれば、グレードの低い戒名、つまり安い仏門入門証を購入することは、故人をないがしろにしているような気になったりするし、「戒名は結構です」とも言いにくい雰囲気が、「世間並みの葬式」にはあります。

    故人と生活を共にしていた家族であれば、故人が生前「葬式はこういうのがいい」と言っていたことなどを考慮して、精一杯故人の趣向に沿った葬式になるようにしたいと思う。
    しかし、葬式に関しては結婚式ほどには好き勝手できない。ことに宗教色の無い葬式(自由葬と呼んだりするらしい)は、まだまだ市民権を得てはいないようです。
    「私の葬式には、お線香も玉串も十字架も要らないから。」
    と娘に頼んだところ、「それらを全て文書で残して欲しい。できたらFacebookで。」と言われました。
    「母の遺言により、このような葬儀スタイルになりました。」と説明しなければ、「こんな葬式をするなんて、なんて親不孝な!」と世間に非難されるのは、残された子供たちだと言うのです。

    そんなわけで、自分の葬式にこだわるなら、遺言状を準備した方が良さそうです。いえ、遺言状というとちょっと物々しい。まあ「私の葬式についてのお願い」という程度のことを、今年はFacebookに残しておこうと考えています。


    「冠婚葬祭のひみつ/斎藤美奈子」「日本人のしきたり/飯倉晴武」

    仕事納めの28日夜から風邪を引き、貴重な正月休みも台無しになっています。
    起きているのも辛いが、寝てしまうには哀しい大晦日の夜。せめてブログの一つも書いておきたい。

    最終日までついていない今年一年を振り返ってみると、春から、お葬式やお墓、宗教について考えさせられるいくつかの葬祭があったため、関連した本を数冊読みました。
    その中で面白かった2冊をメモしておきます。

    「冠婚葬祭のひみつ」斎藤美奈子/岩波新書

    冠婚葬祭、それはきわめて不思議な、そしておもしろい文化である。
    まれにしかないビッグイベントだからだろう、冠婚葬祭に遭遇すると、人はみな、そわそわと浮き足立つ。日頃は気にもしない「しきたり」「作法」「マナー」「常識」「礼儀」などが急にパワーを発揮するのも冠婚葬祭。日頃は信じてもいない宗教が急に必要になるのも冠婚葬祭。日頃は忘れている「家」の存在を強烈に意識するのも冠婚葬祭だ。(「はじめに」より抜粋)


    私は無宗教者である上に、「しきたり」「作法」「マナー」「常識」「礼儀」という言葉自体に、軽く拒絶反応を持つ者です(ついでに言えば「品格」なんてのも)。
    こんな私でも社会生活を営む以上完全に避けることのできないのが「冠婚葬祭」。
    そして何故かしら、親戚付き合いにおいてもめごとの種を生み出し、火を点けるのも「冠婚葬祭」の場。

    そもそも最初にその、「作法」や「マナー」とかを思いついたのは誰なんだ?冠婚葬祭の「常識」とか「礼儀」とか、いったい誰がどうやって決めているの?って疑問に思いませんか?

    気持ちをカタチであらわしたものが「作法」「マナー」になっていくんでしょうけど、それが「しきたり」となっていくと、何故かしら気持ちよりカタチが大事と押し付けがましくなっていくように思います。
    この本は、「しきたり」に逆らうのは難しい、と思っている方が読むと、ちょっと気楽になれる1冊 です。

     もう1冊は、
     「日本人のしきたり」飯倉晴武[編集]/青春新書

    日本人の信仰のルーツや人生の節目節目で執り行われる行事の由来やしきたりなどを、簡潔に、また、中国や韓国から移入された思想や宗教が日本的にアレンジされ、時代の変遷とともに廃れたり、形を変えていく様をさらりと、紹介しています。

    「正月行事のしきたり」の項を読むと、「初日の出」を拝む習慣は、古来からの習慣かと思っていたら、意外と近年に始まったことのようです。
    おせち料理はもとは正月料理ではなかった」とか、「年男とは、もともとは、正月行事を取り仕切る男のこと」とか。
    クイズ番組で出題されているようなトリビアが満載ですね。

    年末最後の大晦日は、「新年の神様である年神様が来るのを、寝ないで待つ」のがしきたりだそうです。でも、もうこれ以上起きて居られない。年神様を万全の体調でお迎えできなくて残念です。

    皆さまはどうぞ良いお年をお迎えください!!

    「本の本」斎藤 美奈子

    最近、“斎藤美奈子”に嵌って、ブックオフで見つけるや必ず購入しています。
    きっかけは、『打ちのめされるようなすごい本』(米原万理/文春文庫)の中で米原万理さんが「斎藤美奈子の本は全部読んでいる」とファンぶりを披露していたので、じゃあ、私もちょいと1冊読んでみるかと『モダンガール論 』に手を出したのが始まり。
    気が付くと
    『誤読日記』
    『読者は踊る 』
    『物は言いよう』
    『冠婚葬祭のひみつ』
    『それってどうなの主義』
    文章読本さん江
    『妊娠小説』
    『文壇アイドル論』
    『文学的商品学』
    と読み続け、もう一冊、あと一冊、もう無いのか?もっと読ませろ!と酒乱気味になっていました。
    文庫化されている作品が少ないせいか、売れっ子作家ではない(たぶん)せいか、大型書店でも棚に無く、取り寄せ扱いの物が多く、結局はアマゾンで中古本を購入。 ついに、コップ酒じゃあ満足できず一升瓶をラッパ飲みするアル中(実際にはこんな人見たことないけど)さながら、厚さ5cm、ページ数にして730ページの『本の本』まで手に入れてしまいました。 そしてそれを一気読み・・・というわけにはさすがにいきませんでしたが、読んでいる間の数日間の楽しかったこと。気持ちよく酔わせていただきました。

    『本の本 1994-2007』(筑摩書房 2008年)は、斎藤美奈子さんが「1994年7月から2007年3月まで、新聞、雑誌など各種媒体に発表した書評および読書エッセイの詰め合わせ」というものです。
    『本の本』の索引をもとに私が数えたところ、この本の中で名前が挙がった作家の数は633人。(数え間違いがあったらお許しください。)
    取り上げられた作品数は、面倒なので数えませんでした。

    私は新聞を取っていないし、最近では雑誌もめったに読まないので、「書評欄」というものを目にする機会があまりありません。だから「新聞や雑誌の書評欄なんて、評論家が出版社や作家の意向に沿った提灯記事を書いているに過ぎないのだろう」てな冷めたイメージを勝手に持っていたのですが、世間知らずでした。

    斎藤美奈子さんは小説・随筆はもとより、学問書、歴史書、文化論、文化史、趣味・教養系と幅広いジャンルの大量の本と一冊一冊、真摯に向き合って、その作品の上っ面を読んだだけでは見えてこない面白さを的確な言葉で読者に伝え、ここまで言っていいのか?仕事が来なくなるのではないか?と読者が心配になるほどの毒舌でもって作品のダメだしをビシバシとやってのける。この毒舌が痛快です。くせになりますよ。

    それにしても、仕事とはいえ大変な読書量です。 日頃私は”趣味は読書”なんて放言していますが、この『本の本』の中で、読んだことのある本はたった12冊でした。
    『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺信彦博士、並びに、』(石黒達昌/福武書店)という奇抜なタイトルの本が存在することにも驚きました。
    聞いたこともない作家名も盛沢山。 すぐにでも読んでみたい気になる本も20冊ほどリストアップできて、収穫の多い1冊となりました。

    私ではこの『本の本』の魅力を十分にお伝えすることができないので、興味のある方は『松岡正剛の「千夜千冊」遊蕩編』(1927夜)を読まれることをお勧めします。
    ※『松岡正剛の「千夜千冊」遊蕩編』(1927夜)ページはリンク切れとなっています。
    『松岡正剛の「千夜千冊」』サイトはこちらから(
    https://1000ya.isis.ne.jp