河出文庫/2011年
『短歌の友人』は、歌人・穂村弘さんが自分以外の人の作品を読み続けてきて、「頭の中に面白いなと思う短歌が少しづつたまって」いった作品について論じた、初めての歌論集です。伊藤整文学賞受賞。
第1章 短歌の感触
第2章 口語短歌の現在
第3章 <リアル>の構造
第4章 リアリティの変容
第5章 前衛短歌から現代短歌へ
第6章 短歌と<私>
第7章 歌人論
目次だけを並べてみると、お堅い学術書的装いです。
取り上げている短歌は、現代短歌を代表する穂村弘さんならではのチョイス。ニューウェーブ短歌とか、前衛短歌とか言われている現代歌人たちの作品が多い。例えば、一番最初に掲げられているのは、
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ
東 直子
この一首目に私はたじろぎました。苦手だな、というのが正直な感想です。
現代短歌の中には、日常語を使って表現されているにもかかわらず、私の住む日常とは別の世界の出来事のように感じられる歌があります。一言で言えば、私には共感しにくい歌。面白さが分からない私が無粋なのか?と自問したくなる歌。
著者は作品の面白さを論理的に構文解析したりしていますが、読み始めは、歌を作ることのない私には、歌人による歌人向けの指南書みたいに思えました。
しかし、「第3章<リアルの>の構造」あたりから俄然面白くなってきましたよ。
「酸欠世界」、「棒立ちの歌」、「言葉のモノ化」、「モードの多様性」、「モードの乱反射」、「『私』の価値の高騰」といった分析が、素人にも分かりやすい。
あるいは、「小さな違和感の強調が現実の手触りをアリバイ的に保証している」とか「<心>とは限りなくレベルダウンしてゆくものなのか」や「寿司屋を回転寿司屋に変える力」といった言い回しで、短歌を通して現代(戦後)社会を鋭い観察者の目で分析してみせる。
なおかつ著者はとても客観的にそして正直に短歌と歌人としての自分を語っています。
その辺も読んでいて面白く、いつものエッセイとはまた一味違う穂村弘さんの魅力を感じました。
穂村弘さんは、思いのほか説得力ある短歌の伝道師のようです。
読み終わったころには現代短歌を、逆に戦後社会の在り様を通して読み直すと、そこにリアルな共感以外の面白さを感じることができる、、、ような気がしてきました。少なくても私は、最初感じたような苦手意識は無くなりました。
ところで、最近、短歌エッセイ集「物語のはじまり/松村由利子」を再読したばかりなので、ついつい2冊の本を比べてしまうのですが、面白いことにどちらも表紙は河川に架かる鉄道橋がモチーフになっています。
これは単なる偶然なのか?と思ったらどちらも同じ装丁家(間村俊一氏)によるカバーデザインでした。
とはいえ受ける印象はずい分違いますね。
『物語の始まり』の鉄道橋には電車が走り、青い空、草茂る土手。イラストレーションなのに、すがすがしいリアルな日常が感じられる。
一方、『短歌の友人』は薄ら淡く背景に同化したような風景。この鉄道橋に果たして電車が通ることがあるのか。いったいどことどこを繋ぐ橋なのか。写真なのに本物の橋なのかと疑わしくなるほどリアル感が薄い。
2冊の本に掲載されている短歌は、ほとんど被ることのない作品が並んでいたのですが、例外が4首。しつこく読み比べて、見つけました。
どんなに感性が違って見える世界の住民たちでも、同じものを見て「ああ、これいいね」と言う時があるんだと、ちょっとほっとするような、少しさびしいような複雑な気持ち。なんだろう?自分でもよく分かりませんが・・・。二冊の本のどちらにも取り上げられていた、その4首をここに記しておきます。
大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵 万智馬を洗はば馬のたましい冱(さ)ゆるまで人戀(こ)はば人あやむるこころ
塚本 邦雄死に近き母に添寝のしんしんと遠田(とほた)のかはづ天に聞ゆる
斎藤 茂吉日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
塚本 邦雄