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「本当はちがうんだ日記/穂村弘」を再読。 たぶん4回目。

7月中旬からブログの更新ができないまま、気が付けばもう秋です。
働く、家事する、疲れる、寝る、のループから抜け出せず、ほぼ思考停止状態のこの頃。
時間は容赦なく流れ去り、巷に年賀状予約の広告チラシが貼ってあるのを見つけて驚いたのだって、もうひと月前の話。準備のいい人なら、今夜は猿の絵を描くのに忙しいかもしれない、そんな時期になりました。

何も考えないまま年を越してしまうのは避けたいので、生活のループを断ち切って、読書メモを一つ、あまり肩の凝らない一冊を紹介したいと思います。


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本当はちがうんだ日記/穂村弘

集英社文庫 /2008年9月発行

日々に疲れて何も考えたくない、
とがった言葉は聞きたくない、
誰かにダメだしする文章は読みたくない、
あまりポジティブに励まされたくない、
そんな時に私がフラッと読み返してしまう本、それが穂村弘さんのエッセイ『本当はちがうんだ日記』です。

総務課長で兼業歌人で独身で、のちに専業歌人になり結婚もした穂村弘さん(40代)。

「今はまだ人生のリハーサルだ。
本番じゃない。
そう思うことで、私は『今』のみじめさに耐えていた。」

という彼が、「今」はもう本番に入っていることに気づいてしまう。そんな人生の過渡期にある日々の小さなわだかまりを綴ったエッセイ集です。

いつも風景を眺めるように読んでいた本ですが、今回はどうしたことか、ところどころ胸がグッと詰まるような切なさを感じる場面がありました。

独り言のような、詩のような、《クリスマス・ラテ》では、母親から
「おまえ、将来何になるんだい?」
と聞かれて
「いやだなあ。お母さん。もう今が将来なんですよ。」
と答える。
どうってことないセリフなのに、私はじわっと泣けてきました。
過ぎた人生の長さより、今後の人生の方がかなり短いということが確定してしまっているからでしょうか。「将来」というワードに過剰に反応してしまうようです。

若い頃には私にも「将来」があり、将来私はどうなるんだろうという不安や焦りや憧れや欲望に振り回されて、「早く30歳になりたい」と願ったものです。30歳になった時、もうこれで無理な望みを抱いて悩んだりしなくていい、とホッとしたことを覚えています。自分の無能さを年齢のせいにすり替えただけの話ですね。

この頃やたら国は「すべての女性が輝く社会づくり」(首相官邸ウェブサイト参照)を推進しています!なんて大言壮語していますが、全て の女性が輝く生き方(って、そもそも何?)を手に入れるなんて、現実世界ではありえない絵空事です。
「非力で軟弱で、容姿が平凡で、あだ名が無くて、才能のない人間」にとって、現実世界は、女性にも男性にも、生きにくいのです。

《「この世」の大穴》の項も、私にとっては身につまされるものでした。

「世の中には、いろいろな長所や魅力があるんだなあ、という感想を持つ。普通だ。だが、勿論、そちらが正しいのだ。心から他人を認められるようになったことを嬉しく思う。
それなのに、ときどき不安になるのだ。(略)
なんとなく、入賞しなかったパチンコ玉が、最後に同じ場所に吸い込まれるように、ひとつの大きな穴に向かってゆくところを想像する。
何ひとつ知らず、どんな考えも持たず、泣きながら産まれてきた自分の全てが、最後は世界の多様な豊かさという、「この世」の大穴に吸い込まれてゆく。これは錯覚か、妄想か。

『本当はちがうんだ日記』は、非力な自分にダメだしを続ける軟弱男の自虐エッセイ、と見せかけて実は、現実世界の大穴に落ちまいと抵抗を続ける、40歳を過ぎようが踏ん張っている、著者の姿がみえてきます。
そしてなお、解説で三浦しおんさんが書かれていることですが、

「すぐれた観察眼で、世界を見据えつづける。観察の結果、残酷で理不尽なこの地上に、このうえもなく美しく貴いものが宿る瞬間があることを発見する。(三浦しおんさんの解説から抜粋)」

《それ以来、白い杖を持ったひとをみつめてしまう》の項を読むと、著者は世の中の真に美しい部分を見逃さず、それを言葉で伝えてくれている。歌人とは、あるいは詩人とは、そういう能力を持った人なのだなあと思います。

 

唐突ですが、最近、奇妙礼太郎が歌うCMソングが耳について離れない。
「なつかしい痛みだわ」って出だしから、もう泣きそうになります。最近の私のこの涙もろさ。
現実圧に負けてしまっているのか。それとも秋のせいなのか?