年別アーカイブ: 2010年

「不実な美女か貞淑な醜女か」米原 万理

yonehara出版社: 新潮社 (1997/12)

同時通訳者の頭の中って、一体どうなっているんだろう?異文化の摩擦点である同時通訳の現場は緊張に次ぐ緊張の連続。思わぬ事態が出来する。いかにピンチを切り抜け、とっさの機転をきかせるか。日本のロシア語通訳では史上最強と謳われる著者が、失敗談、珍談・奇談を交えつつ同時通訳の内幕を初公開!「通訳」を徹底的に分析し、言語そのものの本質にも迫る、爆笑の大研究。
(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

どこかで名前を聞いたことがある、という程度に知っている著者だったので、『不実な美女か貞淑な醜女か』という怪しげなタイトルと表紙イラスト故、別のジャンルの本と誤解して手を出さずにいました。
最近、偶々目にした読書ブログで「文句無く面白い」と紹介されていて読んでみる気になったのですが、ホント、文句無く面白かったです。

米原万理さんはロシア語の同時通訳者として活躍され、「テレビの同時通訳により正確で迅速な報道に貢献したとして日本女性放送者懇談会賞」を受けた方だそうです。
本書は、「働く女性」のエッセイであるばかりでなく、その実態をあまり知られていない同時通訳者達のドキュメントでもあり、示唆に富んだ国際論、異文化論でもあり、爆笑間違いなしの小話満載、お笑い本でもあり、といったところ。

含蓄のあるメッセージが多く、私の目からもウロコが何枚か剥げ落ちました。
例えば、私などは自分が英会話ができないことを棚にあげ、いやだからこそというか、各国首脳が集まる国際的場面において、我が国の総理が日本語でスピーチをしているのを見ると、「国際語をしゃべれないなんて、ちょっとかっこ悪いんじゃない?」と、恥ずかしく思ったりしたものですが、米原万理さんは、『英語で演説したがる総理大臣』に対して、どうか日本語でスピーチして欲しいと苦言を呈しています。
「言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。」「どんな小さな国の人も自らの母語で、一番自由に駆使できる、一番分りやすい、一番伝えやすい、その母語で発言する権利がある」
その異文化間のコミュニケーションを取り持ち、相互理解を成立させるために、通訳や翻訳という職業があるのだ、と。

真の国際人とは、母国語で自分の言いたいことを豊かに表現出来る人のこと、という彼女の主張には説得力があります。日本人としては、まず何はさておき日本語をしっかり身につけていくことが大事なようです。ただ、私の今後の生活に外国語による会話が必要になる予定がないことは残念なのですが・・・・

米原万理さんは2006年に56歳で亡くなっています。私が読んだ2008年版の文庫では、“編集部注”として彼女の絶筆についてのエピソードが紹介されていました。そこから、最後まで真摯に、全身全霊を込めて仕事を愛し、猛スピードで人生を駆け抜けていった作者の姿が感じられ、胸を打たれます。

「生、死、神秘体験」立花 隆

rinsitaiken 出版社: 講談社 (2007/5/15)
内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

「私はいかにしてここに存在するようになったのか」という自分の存在根拠を追い求めた立花隆は「生命」とは何か、「私」とは何か、「臨死体験」とはどういった現象かを追求し、生と死の境界点を探して漂流する。死のプロセスを知ることにより、彼の考えはどう変化したのか。10人の碩学との対話が明らかにする。

立花隆さんの本を、わりと好きで読んでいます。
以前読んだ『21世紀知の挑戦』の中で立花隆さんは次のように語っています。
「私は自分の天職は、難しいことをやさしく語ることにあると思っているが、そういうことができるのも、恥ずかしい過去をいっぱい持ちながら、さらに恥をかくのをものともせず、徹底的に無知をさらけだしながら質問するからである。そして、書くときは、かつての無知なる自分にもわかるようにやさしく語ろうとするからである。」

時には、周囲の顰蹙を買うような言動もあり、バッシングされることも多い方です。私も彼の女性蔑視的発言には思わず「なんですと!」と片膝が立ちました。しかし、それでも、立花隆さんには、世間の目や口を恐れず、知的欲求の赴くまま「人間探求」を続けて欲しいと願っています。ま、私が願わなくても、彼は世間にひるむことの無い方であろうし、そこのところが好きなのですが。

ところで、人の死に「心臓死」以外に「脳死」という新しい死の判定が生まれ、その後ドナーカードが発行されました。自分がもし脳死状態になったら、臓器提供をします、あるいはしたくありません、という臓器提供意思表示カード。
私も死後に誰かの役にたつならば、少しはマシな人生の終わり方に違いないと思い、カードが発行されてすぐ郵便局で手に入れ、この10年あまり携帯してきました。

しかし、今年7月臓器移植法の改正があり、本人の意思表明が無くても家族が同意すれば、脳死患者から臓器を取り出し移植することが可能になりました。
この法改正をきっかけに、私は「脳死」と「臓器移植」について再度しっかり考えてみようと、その視点でこの本を読み始めました。
「脳死」とはどういうものか。「脳死」の判定はどうやるのか。死後の臓器を移植することが、そのまま移植された人の幸せに繋がることなのか。なぜ法改正が必要になったのか。こういった疑問をちゃんと検討したうえで「提供する・しない」の意思表示をしたいと思っています。

「死後の体」については、宗教や民族、文化、加えて個人的理念による違いなどから、それに対する思いもその扱いもさまざまであることに驚かされます。
中でも一番驚いたのは、「いまの人間の葬り方は間違っている」と主張する人(生物学者なのかな?)が、「人間が死んだあと、その死体を焼くのはもったいない、焼けば公害は起きるしエネルギーも使う。これはエコロジーに反する。いちばんいいエコロジカルな人間の葬り方は死体から堆肥(コンポスト)をつくることだ」という考えのもと、コンポスト葬(堆肥葬)を提唱し、具体的な技術開発のための実験(動物を使って)を始めたという話です。
具体的な技術というのは、死体を切り刻んで、堆肥の発酵槽に入れて、いい堆肥を作る。想像すると頭がクラッとするホラーなシーンですが、人間が自然と融合して人類の食糧供給に役にたつ、究極のリサイクルシステムというわけですね。

山田利矢 陶壺展

平成22年11月11日(木)~21日(日)
※15日(月)はお休みです
AM10:00~PM6:00 ギャラリー&カフェ白樺にて

toukoten

当サイトでご紹介している皮革染色工芸作家、山田利喜子さんのお父様、故山田利矢氏の 陶壺展が開催されます。
鹿児島陶芸展、南日本美術展、県美展等に多数入選・入賞し、活躍されていらっしゃいましたが、今年2月5日逝去されました。前日まで作陶をされていたとお聞きしています。

いただいた案内状に山田利喜子さんの挨拶があります。ここに紹介したいと思います。

ご挨拶
父は人生の最後まで作ること、生きることに意欲を持ち楽しんでおりました。
そんな父の作品たちを大切に持っていただきたくチャリティオークション形式といたしました。
感謝の気持ちを込めて。

ギャラリー&カフェ白樺 鹿児島市泉町14-9 TEL099-226-4518

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テレビドラマ化について

誉田哲也の「ストロベリーナイト」が単発ドラマとしてテレビで放映されるという。それを聞いて私はちょっと驚いています。

今年、原作の文庫を読んだばかり。その際「あれ、これ前に読んだかなあ、テレビで観たんだっけ・・」と最後まで既視感が付きまとい、ネットで調べたことがありました。その時点では過去にテレビ化されたという情報はなく、「そりゃそうだよね。いくらなんでもこれは映像化できないよねえ」と思った作品でした。
なにしろ殺人シーンがね、グロテスク過ぎる。それに殺人者の精神状態や家庭環境、児童虐待の描写などもムゴ過ぎる。
もちろん、このすさまじいシーンを描写できるのが作家の力量なのだろうとは思いますが、しかしこれは本だから許されるんじゃないのかなあ。

映画と違ってR指定が機能しないテレビ。
最近では携帯で観ている人も多いパーソナルメディアでもあります。良くも悪くも子供から大人まで、かなりの影響力を持つ情報媒体です。本当にこんなシーンを映し出すつもりなのかしら?なぜ、この作品をチョイスしたのかな?もっと楽しめる原作が他にもたくさんあるんじゃない?いったいどんな人たちをターゲットにドラマ作りをしているのだろう、とテレビドラマ化に関しては、次々疑問が湧いてきます。

その反面、やっぱりなあ、とも思います。テレビってこういう刺激的な殺人が好きなんですね。
現実には小説を超えるような残虐な事件も起きるし、そういう事件にワッと飛びつくワイドショー感覚でドラマの素材を選んでいるのじゃないかと・・・・

ま、まだ放送されていない番組のことをとやかく考えるのは取り越し苦労というもの。おそらく「放送倫理・番組向上機構」にひっかからない範囲で納まるよう、映像処理され放送されるでしょう。それにグロテスクなものほど、ビジュアルに凝ると、むしろ美しくことさら意味ありげにみえることがありますしね。

しかし、もっと考えてみると、もし殺人事件の裁判員に選ばれたら、こういう映像もしっかり見なきゃいけないのですね。や~だ、怖~い、なんて甘ったれたことは言ってられないわけで、精神的にタフでなければ生きていけない。一般人にとってもハードボイルドな世の中ですね。

「ワーキングプア―日本を蝕む病 」NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班

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出版社:ポプラ社 (2007/06)

働いても働いても報われない人々「ワーキングプア」。NHKスペシャル取材班が、放送では伝えきれなかった詳細を書籍化し、大反響を呼んだ。現代日本の象徴的な問題に我々はどう対処すべきか。渾身のノンフィクション。
(内容Amazon.co.jp<「BOOK」データベースより)


NHKでスペシャル番組、「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」と「ワーキングプアⅡ~努力すれば抜け出せますか~」が放送されたのが、2006年7月と12月。

本にまとめられ発行されたのは2007年6月。
2007年8月にはT/T:Blog 「ワーキング・プア」でこの話題に触れていましたね。

NHKの番組はとても反響が大きかったということです。私は当時観ることができなかったので、せめて本にまとめたものを読みたいと思いながら、読むと辛いぞという予知能力が働いて、ついこれまで避けてしまっていましたが・・・・ブックオフでみつけ手に取りました。

  • 1.「貧困」の闇が広がる日本
    2.ホームレス化する若者
    3.崩壊寸前の地方
    4.夢を奪われた女性
    5.グローバル化の波にさらわれる中小企業
    6.死ぬまで働かざるをえない老人
    7.荒廃を背負う子ども
    8.現実に向き合う時

 

目次を目にするだけで、たいていの人は書かれている内容を想像することができるのではないでしょうか。
他人事ではない。そう思う人が多いのではないでしょうか。

私もワーキングプアという集団の同心円内にいます。円というよりは巨大な巨大なすり鉢をイメージした方が分かり易いかもしれません。
今のところ住むところと仕事を持っていますが、加齢とともにすり鉢の底に向かって吸い込まれていくのは間違いない。
この巨大な巨大なすり鉢は、底に穴のあいているブラックホールです。

すり鉢の中を緩慢に、あるときは急激に、滑り落ちていく感じを身をもって知っている人、そうなるのではという不安を抱えている人がどれだけ多くいることか。しかしその数は実際には数えられていません。
構造改革に伴う「痛み」を引き受けてしまった者たちの存在を、ただ「格差」という言葉でまとめて、それで改革は終わりですか?とかつての日本国代表と現代表に聞いてみたいですね。

続編として「ワーキングプア 解決への道」も発行されているようです。
ぜひ読んでみたい。解決の道を探す努力をしている人たちがいることも知りたいと思います。

「ワイルド・ソウル」垣根 涼介

wild出版社: 幻冬舎 (2006/04) 

内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)
1961年、衛藤一家は希望を胸にアマゾンへ渡った。しかし、彼らがその大地に降り立った時、夢にまで見た楽園はどこにもなかった。戦後最大級の愚政“棄民政策”。その40数年後、三人の男が東京にいた。衛藤の息子ケイ、松尾、山本―彼らの周到な計画は、テレビ局記者の貴子をも巻き込み、歴史の闇に葬られた過去の扉をこじ開けようとする。
————————————

2、3年前、読んだ本です。
国と外務省に騙されて過酷な地に棄てられてしまった人間たちの復讐物語、ときくと暗く重たい旋律のBGMが流れるストーリーを想像してしまうかもしれませんが、むしろ、陽気でおおらかなラテン音楽が似合う、痛快な作品だったと記憶しています。
タイトルどおりワイルドでソウルフルな物語です。
大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞のトリプル受賞。

ブラジル移民については、苦労の末コーヒーなどの栽培に成功した入植者たちのドラマをTVで観たことがありましたが、アマゾンの地に見棄てられた多くの人々がいたことを、私はどれだけ知っていただろうと考えさせられた作品です。
作家というのは歴史を掘り起こし、読む者に伝えるという使命も担っている、そういう作家もいるのだと思います。

ただ、垣根涼介の他の作品、「君たちに明日はない」や「借金取りの王子」を読んだ時にも感じたことですが、登場する女性のパッションというか、活発な精神というか、とても魅力的なんですが、たぶん私はこういう女性に会ったことがないのだと思います。ちょっと感情移入しにくかった。正直に言ってしまうと、主人公となる男性についても、とても好ましい人物なのに、全く別世界の人のように感じられる。人見知りな私にはちょっと近づきにくいキャラクターでした。

2008年がブラジル移民100年の年であったようで、記念サイトがいくつかありました。
「 ブラジル移民の100年 」は「国立国会図書館」のコンテンツの一つとして公開されているサイトです。
「国立国会図書館」の電子展示会へのリンクがあったのでたどってみると、思いがけず興味を引くコンテンツがいろいろありました。

まず「絵本ギャラリー」を開いてみたのですが、”18世紀から1930年代に至る期間の、日本と欧米の絵本の名作を紹介”しているそうです。
繊細でノスタルジックな美しいイラストレーションの数々。そんな絵本をまるごと電子図書として音声付で読めます。日本語で聞くのもいいですが、英語音声にすると、子供も楽しく英語の勉強ができるのでは。こんな贅沢なサイトがあるなんて、今まで知りませんでした。
他にも、
「博覧会-近代技術の展示場」
「江戸時代の日蘭交流」
「写真の中の明治・大正 -国立国会図書館所蔵写真帳から- 」
「描かれた動物・植物 -江戸時代の博物誌-」
「インキュナブラ -西洋印刷術の黎明-」
etc・・・マニア心をくすぐるコンテンツがいろいろありますよ。
本の万華鏡」というのも気になるし、今度またゆっくり覗いてみようと思います。

としまえんと東京タワーとグリルつばめ、ではなく「つばめグリル」③

tokyo09グリルつばめ、ではなく正しくは「つばめグリル」でした。私はずっとグリルつばめと思い込んでいました。

つばめグリルのホームページによると創業は1930年。特急つばめの誕生にちなんで名づけられた、80年の歴史を持つ老舗レストランです。
本店は銀座にあり、支店も多数あるようですが、私が行ったのはレトロなビアホールといった風情 の品川駅前店。

ハンバーグステーキをアルミホイルで包み込んだ「つばめ風ハンブルグステーキ」が人気のお店です。アルミホイルをナイフで切り開くと、柔らかいけれど少し歯ごたえのあるハンバーグと、意外とさっぱりとした味のビーフシチューが、ほんわりと芳ばしい香りとともに現れます。

ジャガイモを1個まるごとオーブン焼きにしたベイクドポテトが添えられていて、これだけで十分お腹いっぱいになる1品ですが、やはりこの店ではシーザーサラダも注文したい。新鮮な食材のみを使用し、化学調味料や着色料、保存料を使わないという、お店のこだわりが実感できるシーザーサラダ・・・これがいいんだよ、と東京出張から帰ってきた夫が熱く語ったことがあります。

シーザーサラダの主役は、レタス。普段スーパーで見かける丸っこいレタスではなく、大振りの縦長いレタス。夫はその名前が思い出せず、私が「それはサンチェじゃないの?」と言うと、「違う、違う」と首を振るばかりで結局思い出せませんでした。
とにかくいつか食べに行こう、と当てにならない約束をしてくれたのですが、それから間もなくその約束は果たされることになりました。

2006年7月20日、夫と二人でつばめグリルの品川駅前店で食事をしました。
日付まではっきり覚えているのは、その日、国立がんセンターにセカンドオピニオンを受けに行ったからです。がんセンターでの診断はあまりに厳しく、一縷の望みをも打ち砕くものでしたが、夫はその日の夕食に、つばめグリルに連れて行ってくれました。

夫が、つばめ風ハンブルグステーキとシーザーサラダ、ビールとコーヒーを注文し、「これだよ、ロメインレタス!」と、やっと解答を得て嬉しそうに言いました。
食事をしながら何を話したのかは思い出せませんが、病気の話題は避けて、いつものように仕事のこととか、たぶん食べ物のことや何か、たわいも無いおしゃべりばかりしたように思います。私は泣くまいとこらえるのに精一杯で、ハンバーグもサラダもまるで味など分らなかったのですが、夫は生ビールを美味しそうに、まるで心配事なんて何もないよ、というような顔をして飲んでいました。不思議な人です。最後までそんな調子で、人前で辛い顔を見せることはありませんでした。

今回、つばめグリルには、娘と夫の姉や姪と一緒に行きました。夫の思い出を身近な者と共有できたことが嬉しかったし、今度はしっかりと味わうこともできました。
しかし、「本日は野菜の良いのが入らなかったので。」ということで、シーザーサラダは注文できませんでした。残念・・・。

tokyo10左の写真を撮ったのは私です。間違えて隣のサラダを撮ってしまい、シーザーサラダはお皿半分しか写っていません。
つばめグリル ロメインレタスのシーザーサラダに調理中の画像があります。こちらを見た方が美味しさが伝わりますね。

ロメインレタスとは、白菜のように長円形にゆるく結球し、ラグビーボールのような形をしたレタスのことです。古くは古代エジプト王朝で食べられていたと言われる歴史の長い野菜で、「立ちちしゃ」や、エーゲ海のコス島で栽培されていたので「コスレタス」とも呼ばれています。ロメインレタスは、葉に厚みがあって、サクッとした歯ごたえとクセのない爽やかな味覚があるので、特にシーザーサラダのメイン素材として人気のあるレタスです。また、ロメインレタスは生食だけでなく、炒め物や煮物など加熱するお料理にも幅広く使われます。
1から始める料理の基本より

としまえんと東京タワーとグリルつばめ②

tokyo06東京タワーに登りたい、と言うと「馬鹿と煙は高いところに登りたがる」と笑われそうですが、確かに私はその部類です。
高所恐怖症のクセに、屋根と壁に囲まれて、床が透けていないこと、という条件さえ合えば、高ければ高いほど登りたくなってしまいます。

地上250mの展望台から見下ろすと、以前より高層ビルがかなり増えたというのが実感できました。
竣工年代順・東京都(23区)・超高層ビルデータベースによると、1968年に高さ100m以上のビルは1棟だったものが、2010年1月現在で402棟ほど。9月の今ではさらにその数を上回っているはずですし、さらに現在建設中もあるようです。

東京の街も上へ上へと登りたがっている・・・ひょっとして街を挙げて私と同類でしょうか。
この高層ビルの全てが、「としまえんカルーセル エルドラド」のように100年以上の月日を、果たして生き延びていけるのでしょうか。
そんな老婆心を抱きつつ、街の風景を上空から鳥の目で俯瞰できる東京タワー。この3月には日本一高い建造物のポジションをついに東京スカイツリーに譲ってしまいましたが、私はデザイン的には東京タワーのAラインが好きです。

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※写真は娘の撮ったもの

グリルつばめについては、また明日。

としまえんと東京タワーとグリルつばめ①

連休に東京に行ってきました。
東京に行く機会があったら是非寄ってみたいと思っていたところが3つありました。
「としまえん」と「東京タワー」と「グリルつばめ」です。

 としまえんには2010年度の「機械遺産」に認定されたというメリーゴーラウンドがあります。
私は子供の頃からメリーゴーラウンドが好きでしたが、わが町のそれはとてもコンパクトで、言い換えればショボイ回転木馬もどき・・・その遊園地さえ潰れてしまって今は無い。
映画で観るような本格的なメリーゴーラウンドに乗ってみたいと、大人になってからは声には出さず心密かに願っていました。
先日、テレビで”としまえん機械遺産認定”のニュースを見て、いつか観に行こう、と心に留めていたところ、思いがけず早くその機会に恵まれ、ディズニーランドとは比べ物にならない、とても庶民的で昭和的なこの遊園地へ行ってきました。
としまえんメリーゴーラウンドは期待通りの美しさでした。

(※以下、写真は娘の撮ったものです。)

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  としまえん カルーセル エルドラド
日本機械学会「機械遺産」  機械遺産 第38号

わが国に現存する遊戯機械の中で最古、かつ、世界でも最古級のものが、この「としまえん カルーセル エルドラド」である。回転木馬の設計技師として名を馳せたドイツ人、ヒューゴー・ハッセが、1907(明治40)年に造ったもので、機械仕掛けの芸術的乗り物として100年以上の歴史をもつ、世界的に貴重な文化遺産である。
20世紀初頭のアール・ヌーヴォー様式の装飾が施された芸術作品と機械技術がみごとに融合した、顕著な例を見ることができる。原動機部は当初のものではないが、上下運動を伴わないシンプルな構造の回転木馬で、3つのステージが摩擦駆動により異なる回転速度で動く特徴をもつ。
ヨーロッパ各地で巡回営業された後、1911(明治44)年に米国東海岸の行楽地コニー・アイランドへ渡り、1964(昭和39)年まで運用された。その後、廃棄される直前に豊島園が買い取り、原形どおり忠実に修復され、1971(昭和46)年から現在地で動き続けている。
乗る人・見る人を魅了し、親しまれ続けているこの回転木馬は、所有者の高い保存・継承・活用の意志のもと、わが国のみならず、訪れる世界の人々に夢と楽しみを与え、生活文化の向上に大きく貢献し続けている。
「機械遺産」http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_038.htmlより

 日本では回転木馬とかメリーゴーランドとか呼んでいますが、英語ではカルーセルと呼ばれることが多いそうです。エルドラドは 黄金郷という意味。
カルーセル エルドラド、カルーセル エルドラド、続けて言うと何かが出現しそうな、呪文のようですね。

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tokyo04メリーゴーラウンドの一番人気はやはり馬ですね。私も乗りたかったのですが、争奪戦に破れ、気がつくと豚さんにまたがっておりました。
ここの乗り物は上下運動はしませんが、外側のステージの回る速度は半端でなく、しっかり豚さんにしがみついていなければ、振り落とされそうな勢いです。

「まわる まわるよ ぼくらを乗せながら
まわる まわるよ 地球はメリーゴーラウンド
悲しみ よろこび すべてのせてゆくよ」

詞:山上路夫
曲:日高富明
編曲:東海林修

ガロの「地球はメリーゴーランド」の曲が、心の中でリフレインして・・・・
としまえんカルーセルエルドラドは、9月4日(土)~10月11日(月・祝)まで無料開放されています。
そろそろ出勤時間になりましたので、続きはまた今夜。

ジュール・シュペルヴィエル

フランスの詩人です。小説家でもあるようです。
いいにくい名前です。
古いノートに私はジュール・シュペルヴェールと書き写していたので、その名前で検索してみましたが、シュペルヴェールでなくシュペルヴィエルの方が通りがよいようです。ウィキペディアもジュール・シュペルヴィエルと表記されていました。フランス人の名前を日本語表記するのは難しいですね。
ま、来日中のミラ・ジョヴォヴィッチも表記しにくいし、フランスに限ったことではないですね。
日本人の名前だって海外ではどういう発音や表記をされるのか興味あるところですが、その話はさておいて。

インターネットなんて言葉がまだ世の中に存在しない昔、ジュール・シュペルヴィエルの詩をどこかで目にして、いくつか書き留めていました。
シュルレアリスム (これもまた表記しにくい!)の詩にハマっていた時期があったので、ロートレアモンやなんかと合わせて読んだ記憶があります。

シュルレアリスムの詩は、意味を読み取ろうとすると難解(=面倒)なので、むしろ意味など考えずに自分勝手にイメージできるところが好きです。

ジュール・シュペルヴィエルの詩からは、荒涼とした孤独な風景が美しい絵となって目の前に現れるような、そんな作品があります。

当時、「動作」という詩が広く知られていたように覚えています。

「動作」

               ジュール・シュペルヴィエル

その馬はうしろを振り向いて

誰もまだ見たことのないものを見た。

それからユウカリの木の陰で

牧草をまた食べ続けた。

それは人間でも樹でもなく

また牝馬でもなかったのだ。

葉むらの上にざわめいた

風のなごりでもなかったのだ。

それはもう一頭の或る馬が

二万世紀もの昔のこと

不意にうしろを振り向いた

ちょうどその時に見たものだった。

そうしてそれはもはや誰ひとり

人間も馬も魚も昆虫も

二度と見ないに違いないものだった。大地が

腕も脚も首も欠け落ちた

彫像の残骸にすぎなくなるときまで。

「難破船」

      ジュール・シュペルヴィエル

こちらのここにテーブル あちらのむこうにランプ

空気がいらいら波立っているから どうにも一緒になれないで

人っ気のない海岸 水平線まで突き出ていて

腕をあげて男が沖で叫んでいる 「助けてくれえ!」

すると木魂が答えている 「どういう意味なんだ いったい」

 

若いある時、私が「名前が思い出せないんですが、馬が振り返る、詩がありますよね」と誰かに聞いたところ、近くにいた見知らぬ人が「それは、ジュール・シュペルヴィエルですね」とサラッと応えて、周囲が「おおっ」とどよめいたことがありました。なんてかっこいい!若い私は、感動しました。
その後、私は「アーノルド・シュワルツェネッガー」の名前を繰り返し口にして覚え込んだものです。
アーノルド・シュワルツェネッガーは発音でも表記しにくさでも最高レベルの名前ですね。

「下から目線で読む『孫子』」山田 史生

sonsi出版社:筑摩書房 (2010/7/7)

内容(Amazon.co.jp 「BOOK」データベースより)
歴史上、数々の支配者たちに熟読されてきた兵法書の古典『孫子』。人間心理への深い洞察をもとに必勝の理を説いた同書を、視点をひっくり返して読んでみたら、何が見えてくるのか。自明とされた「勝ち」というものが、にわかに揺らぎ始めるかもしれない。『孫子』のなかから、これぞという言葉を選び、八方破れの無手勝流でもって解釈しながら、その真意を探る。

キャッチコピーは「下々に捧ぐ」

「孫子」なんて全く興味もなかったのですが、「下々に捧ぐ」というこの言葉がぐさりと胸に刺さり、購入してしまいました。
だいたい「孫子」については、孔子や孟子みたく中国の偉人の名前だろうと思っていたくらいですから。
実際は人の名前ではなく、「孫子」というタイトルの兵法書、いわば「戦争マニュアル書」の名前でした。知らなかったなあ。本を読むたびに己の無知さ加減を思い知ることになる今日この頃です。
しかし、「孫子」など知らなくて当然。恥じることはありません。「孫子」は下々の者が読むような書物ではないらしいのです。

戦国時代にあっては武将たちが、国家統一が成された現代においてはプレジデントたちが、「敵に勝つための手引書」として、「上に立つものが下に居るものをどう動かすか」というノウハウ本として使うものらしいです。

「兵とは詭道なり。」
「戦いのコツは、相手をダマすことにある。」と山田史生さんは訳しています。
孫子的漢文調で「兵とは詭道なり。」ときっぱりと声に出して言えば、騙すことにも大義があるように聞こえてきて何だか可笑しいですね。

「利なればこれを誘い、乱なればこれを取り、実なればこれに備え、強なればこれを避け、怒なればこれを撓(みだ)す。」
山田史生さん訳:「欲張りならエサで釣り、お調子者ならスキをつき、真面目なら様子を見て、短気なら刺激せず、単純なら挑発する。」

「必死は殺され、必生は虜にせられ、忩速(ふんそく)は侮られ、廉潔は辱められ、愛民は煩わせさる。」
山田史生さん訳:「ガンバると殺され、逃げると捕まり、短気はバカにされ、真面目はダマされ、優しいと苦労する。」

戦術というよりは、処世術に読み替えることができそうです。人生そのものが戦いだとすると戦術も処世術も似たようなものかもしれませんね。

ところで、来月は民主代表選があります。元来が好戦的なお上たち。たぶん、一度ならず孫子を読んでいることと思いますが、私からも僭越ながら「お上に捧ぐ」一文を。

「亡国はまた存すべからず、死者はまた生くべからず。」
滅びた国家は立て直せないし、死んだ人間は生き返らない。

「外科医須磨久善」海堂 尊

gekai出版社: 講談社 (2009/7/23)

(内容紹介Amazon.co.jpから)
“海堂ワールドの新展開、外科医の謎に迫る。” 世界的権威の心臓外科医はいかにして誕生したのか。旧弊な学界から若くして認められるため、どんな奇策をとったのか。現役医師作家にしか書けない、医者の秘密。


須磨医師は中学二年生の時、自分は普通の会社員にはとてもなれそうもないから、医者になろうと決めたそうです。

  • 「人を押しのけたり、競争はしたくない。
    小さくささやかな人間関係の中で生きていけたらいい。
    理想は最小単位の人とのかかわり合いだ。仲の良い友達から「君がいてくれてよかった」と思われるのがいい。
    競い合いではなく、ほのぼのとした人間関係ができたら幸せ。
    いいやつと悪いやつが入り交じる雑駁な世界はイヤ。
    自分ががんばってもトップが愚鈍なせいで路頭に迷うのもイヤ。
    他力本願でうっとうしいのもイヤ。
    よくも悪くも自分の責任で仕事できないのもイヤ。
    つきあう相手とはケンカをするのも足の引っ張り合いをするのもイヤ。
    自分が誰かを不幸にするのもイヤ。」

だから、患者と医者という1対1で向かい合う職業を選んだ、というところに思わず感動しました。

自分の心許せる狭い範囲で、しがらみなくささやかに生きたい、という気持ちは私も全く一緒なんですけどね。子供の頃から、何々になりたいと職業を真剣に考えたことが一度もないまま生きてきました。そのことを今更ですが、反省しました。
須磨医師は外科医になろうと決めてから、一度も気持ちがブレることなく突き進んでこられたようです。ブレないこと、は大事ですね。

個別ページにもサイドバーを表示させる

wordpressは膨大な量のテーマが用意されていて、無料で選びたい放題、というところも魅力の一つです。デザインも豊富にありますが、テーマの仕様や機能に、それぞれ微妙な違いがあるので選択に迷います。
しかし、まあ、どんなにたくさん提供されても、欲を言い出すときりが無く、完璧にそのまんま使えるテーマって意外とないような気がします。

今私が使っているテーマでは、個別ページを開くとサイドバーが表示されません。wordpressのデフォルトのテーマもそういう仕様になってるので、ま、それが普通なのだろうと思っていたら、個別ページにサイドバーが表示されるテーマも多くありました。
その違いはどこにあるのか、テンプレートをじっと見比べてみると、どうやらsingle.phpにsidebar.phpを読み込む一行があるかどうかだけの違いのようです。

single.phpの変更箇所
最後の行にある<?php get_footer(); ?>の前に<?php get_sidebar(); ?>を追加する。

single.phpを変更しただけだと、カラム落ちするので、style.cssのシングルページ関連箇所で幅や余白の修正をします。

「エンジェルズ・フライト」マイクル・コナリー

angels出版社: 扶桑社 (2006/01)
内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)
LAのダウンタウンにあるケーブルカー、“エンジェルズ・フライト”の頂上駅で惨殺死体が発見された。被害者の一人は、辣腕で知られる黒人の人権派弁護士ハワード・エライアス。市警察の長年の宿敵ともいえる弁護士の死に、マスコミは警官の犯行を疑う。殺人課のボッシュは、部下を率いて事件の捜査にあたるが…。緻密なプロットと圧倒的な筆力で現代アメリカの闇を描き出す、警察小説の最高峰“ハリー・ボッシュ”シリーズ第六弾、ついに待望の文庫化。単行本『堕天使は地獄へ飛ぶ』改題。

いつだったか、子供の頃、仏教に基づいて描かれた「地獄絵図」というのを見たことがあります。水木しげるの漫画だったような覚えがあるけど、あまり定かではありません。見たくて見たわけでなく何かの拍子にうっかり見てしまい、口にするのもおぞましい、文字にするのも恐ろしい、残虐でグロテスクな刑罰の数々、亡者の姿に衝撃を受けました。
とにかく私はすごい怖がりなので、ホラーなものは受け付けません。「これはただの絵なんだ、誰かの妄想で作り上げたニセモノの世界なんだ」と自分に言い聞かせ、「天国」というのもないけど「地獄」だってないんだから!(何故か天使と閻魔様・・・和洋折衷なんですけど)と現世以外の存在を否定してきました。

しかし、現世にこそ「地獄」があるのだ、と容赦なく突きつけるのが、この本、マイクル・コナリーの「エンジェルズ・フライト」です。
「エンジェルズ・フライト」とはロサンゼルスのバンカー・ヒルという再開発された丘の頂上(高級住宅地&最新オフィス街)から丘の下を結ぶ、短距離ケーブルカーのことだそうです。美しいネーミングです。
そのケーブルカーの中で黒人弁護士の射殺死体が発見されるところから物語は始まります。その後の展開は、1992年に起きたロス暴動の事件と推移をなぞる形になっています。さらに、物語には1996年に起きたジョンベネちゃん事件を想起させる児童殺害事件が加わり、、、、

マイケル・コナリーの筆致は劇場映画を観ているような臨場感にあふれ、迫力があるだけに、本当にこのまま映像化されたとしたら、私はとても直視できないと思う。読書しながらも、目を覆うような凄惨な場面にはボカシをかけて、細部まで想像しないようにして読んでしまいました・・・。

しかし、この本に書かれていることは、決して誰かの妄想ではない。現実にあることをなぞっているのであり、ロサンゼルスの町に地獄を作り出している一番の要因は人種差別であり、人種差別からくる貧困であるということを考えさせます。

ところで、私は長いこと、ロサンゼルスの名前はLoss Angelsで、「天使たちのいない」という意味だと思い込んでいました。日本にある「神無月」みたいに、本当は天使のたまり場なんだけど、他の街に天使たちが出払っているからこんな名前になったのだ、というエピソードも勝手に作っていたんですけど。
本当はLos Angelesで「天使たち」そのまんまの名前だと、実は今日初めて知りました。ロサンゼルスを舞台にしたハードボイルド小説などでは、「天使のいない街にようこそ」なんてセリフがあったりするんですが、あれはただの掛けことばによる皮肉だったようですね。(いまごろ・・・)

面白いアート

日本最大のオンラインニュースマガジンサイトと称されるGIGAZINE(ギガジン)見ていますか?

「日本の影響力のあるブログとして第1位」だそうです。
一日の更新回数も多く、多種多様な情報が満載のサイトです。

その多様性と情報量の多さに、私は圧倒されてしまうので、毎日見るのは無理なのですが、たまに見るとやっぱり次々ページをめくってしまいます。

アートのジャンルに絞って覗いてみました。とても全部の「続きを読む・・」ことはできないので、気になる見出しだけを拾い読みです。

「MSペイントで2時間30分かけて「モナ・リザ」を描くムービー」という動画には驚きました。MSペイントは簡易なお絵かきソフトだと思っていましたが、「弘法筆を選ばず」ってことですね。

私が気に入ったのはこれかな。「鉛筆スケッチで写真に妄想をはめ込んだ「Pencil Vs Camera」」。

他にも美しいアート、驚愕のアート、不可解なアートなど、面白いアートがいっぱいです。

並はずれた想像力と優れたデッサン力、そして忍耐力があれば、人はどんなものからでもアートを生み出すものだと、つくづく思いました。

そんな才能を、偶然手に入れた人もいるようです。本当に人間って、人間の脳って、不思議なものですね。
「脳手術後にアーティストとしての才能が目覚めた男性」

「木曜日の子供 」テリー ホワイト

mokuyoubi出版社: 文藝春秋 (1991/09)


木曜日の子供は遠くまで行く―。マザーグースはそう歌う。たまたまそんな星の下に生まれたために旅に出なければならない家出少年が、ひとりの殺し屋に出会う。が、この凄腕の殺し屋も、よくよく聞けば両親を航空機事故で失い、たった一人の弟を植物人間にされて敵討ちを心に誓っている。彼もまた“木曜日の子供”なのだろうか?

内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)


ブックオフでたまたま見つけた本です。テリー・ホワイトの処女作「真夜中の相棒」も、やはりたまたま古本屋で購入して、随分以前に読んだことがありました。どちらも中年の殺し屋と無垢な若者または少年との疑似家族愛が切ない物語です。

「木曜日の子供」というタイトルはマザー・グースの歌からとられているそうで、あとがきにその歌が紹介されていました。

            「マザー・グース」

月曜日の子供は顔がきれい、
火曜日の子供は気品にあふれ、
水曜日の子供は悩みが多く、
木曜日の子供は遠くまで行き、
金曜日の子供は愛情ゆたか、
土曜日の子供は働いて暮らしを立てねばならぬ、
けれども、安息日に生まれた子供は、
かわいくて、賢くて、人がよくて、ほがらかだ。

何でしょうね、この歌は。不思議な内容です。でも何だか気になります。私は土曜日の子供なのか?

「あなたの誕生日は何曜日ですか?」で誕生日の曜日を調べてみました。私は月曜日の子供でした。・・・で?

追記:何曜日生まれかを調べるのに、占い関係でないサイトにリンクを張っていたのですが、何故か次々リンク切れしてしまいました。以下に万年カレンダーサイトをリンクしておきます。

あの日は何曜日?  10000年カレンダー

追記:2023年7月20日

曜日調べのサイトが次々リンク切れになってしまいました。
今日見つけたサイトは「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「その日は何曜日?」。
名前の通り、 “ちょっと便利” で “ちょっと役に立つ” いろんなコンテンツをてんこ盛りに詰合わせた面白いサイトです。

【みんなの知識 ちょっと便利帳】⇒その日は何曜日? [曜日調べ]
https://www.benricho.org/nenrei/youbi.html参照

生現!

先日イタリア×スロバキア戦を見ていて思ったのですが、外国の選手はとても目立つタトゥを入れている人が多いですね。昨夜のイングランド×ドイツでも、ベンチにいるベッカムの腕からチラリと覗く青い模様が気になりました。

日本ではタトゥと言えば刺青。刺青と言えばその筋の人という連想があるから、反社会的でマイナーなイメージが強い。海外のノリでサブカルチャーだとかファッションだとか、スキンアートだとか言われても、なかなか受け入れがたいのが実情だと思います。
私はすごい怖がりなので、丸太のように太い二の腕に蠍だとかムカデだとかタトゥをいれている人がいたら、たぶん3mも近づくことができないでしょう。あの手のタトゥは人を威嚇するために入れているのだと思います。
しかし、「日本文化に影響された外国人のタトゥー 」という動画に紹介されている人達は、人を怖がらせる意図はないように見えます。
座右の銘とか自分の信条とかを生涯忘れることのないよう、体に刻みこんでおこうとしているか、あるいは私みたいな、おっちょこちょいな方々なのか。どうしてその字を選んだのか、尋ねてみたい気もします。

「日本文化に影響された外国人のタトゥー 」

以前聞いたので面白いと思ったのは、項に「祖母」というタトゥ。生きているおばあちゃんならほのぼのですが、亡くなったおばあちゃんを偲んでなら、しんみりした気分になりますね。でも本当は「祖国」といれたかったのでは?
検索していると、「漢字の意味を間違っているよ!」と指摘しているアメリカのタトゥ屋さんがありました。
それによると「色」を何故か“Wild”と勘違いしてタトゥしているとか。
他にも「子」を“spirit”。
「夕」を“child”。
「天」を“To Die Young”(これは夭折の夭と間違えているらしい)。
「荒」は“Passion”だと思っている人がいるようです。

それから、「生現」というタトゥ。これは“Live For Today” って意味だと思っているとのことです。「生」は「live」「現」は「now」、そこからできたアメリカ熟語らしいです。
そのタトゥ屋さんは「生現とは「生きて現れる」、あるいは「生き返る」って意味で、ゾンビを見るみたいなことだよ」と注意しています。

話はそれますが、“Live For Today”っていい言葉ですね。私も座右の銘にして、体でなく心に刻んでおきたい。
昔、ザ・テンプターズが「今日を生きよう」というタイトルで歌っていたのを思い出します。私は原曲の方が好きでした。バンド名は知らなかったけれど。
今調べてみると、原曲はアメリカのバンド“ グラスルーツ ”原題は「Let’s Live for Today 」です。懐かしの曲をYOU TUBEで。時代を感じますねえ。

 

「わが心臓の痛み」マイクル コナリー

wagasinzou出版社: 扶桑社 (2002/11)

内容(Amazon.co.jp「BOOK」データベースより)

連続殺人犯を追い、数々の難事件を解決してきたFBI捜査官テリー・マッケイレブ。長年にわたる激務とストレスがもとで、心筋症の悪化に倒れた彼は、早期引退を余儀なくされた。その後、心臓移植の手術を受けて退院した彼のもとに、美しき女性グラシエラが現われる。彼女は、マッケイレブの胸にある心臓がコンビニ強盗に遭って絶命した妹のものだと語った。悪に対する怒りに駆り立てられたマッケイレブは再び捜査に乗り出す。因縁の糸に繰られ、事件はやがてほつれ目を見せはじめるが…。 

映画と読書」で紹介されていたマイクル・コナリーの「暗く聖なる夜」を読んでから、この作者のハードボイルドタッチが気に入っています。
少し細か過ぎるかなと思うほど、ディテールを丁寧に書き込んでいます。小説の中で登場人物の一人が推理小説を読んでいる場面があるのですが、「今西警部、捜査す」という日本のミステリーです。これがなんと松本清張の「砂の器」のことだと注訳がありました。こういう、ちょっとした「へぇ~」を見つけるのも、海外小説の面白さです。
「わが心臓の痛み」は原題の「Blood work」のタイトルで映画化されたそうです。文庫のカバーにもなっているので分るようにクリント・イーストウッド主演。及び監督・制作も。
クリント・イーストウッドと言えば、私が子供の頃初めてカッコイイ!と思ったヒーローです。「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」、その後の「ダーティ・ハリー」シリーズ。思えばこの頃に私の「ハードボイルドでアウトロー」な好みが形成されたのでしょう。原点はクリント・イーストウッドに違いありません。
彼の映画を最後に観たのは「許されざる者」。夫と二人でDVDで観ました。夫は「いい映画だ。」とかなり感動していましたが、私は「我がヒーローも歳をとったなあ」としみじみしたものです。
ところで、今夜は「歳をとるのは怖い」と思い知らされることがありました。
ブックオフで次なるマイクル・コナリーを手に入れて嬉々として車で帰宅する私。大きな交差点の最前列で信号待ちしていると、車をぶつけられました。
信号待ちでぶつけられるというと、追突されたのだろうと思うでしょう?違うんです。左折するつもりだったらしい車が、大回りに曲がって、信号待ちしている車の列に突っ込んできたんです。とろとろしたスピードで、ひょろひょろと私の車の正面左寄りにやってきてコトンとぶつかり、ガリッとボディをこすって、私の車と隣の車の間をすり抜けようとしました。運転しているのは80歳をとうに過ぎていると思われるご老人でした。
その時信号が青になったので他の車はそのご老人の車を避けながら、いっせいに走り出し、動けないのは私の車だけ。バックミラーで見てみると、そのご老人の車はするすると私の後方を走って行き、そのまま左車線を逆走していくようでした。一人取り残された私。仕方が無いのでそのまま帰ってきました。
高齢者の危険運転のことがニュースになったりしますが、本当に怖いですね。今夜を境にその方が運転をやめる決心をしてくれたらいいと思うのですが。
「歳をとるということは昨日までできていたことが、今日からはできなくなること。」そうなんですねぇ。

「探す」飯島 耕一 

生活居住圏も生活パターンも全然重なることのない人と、予期せぬ場所でばったり出会って、驚くことがたまにあります。

そんな時、「あの店をあと1分出るのが遅かったら、あるいは早かったら、決して出会うことはなかったのだ」などと思うと不思議な気持ちになりますよね。BGMにはあの曲が流れてきそうです。

~あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
僕らは いつまでも 見知らぬ二人のまま~

昨日の夕方がそんな日でした。と言っても偶然出会ったのは親戚の女の子。「ラブストーリーは突然に」は流れてこなかったけれど、やっぱり不思議だな、偶然ってやつは、と思わずにはいられません。

人との出会いは、考えてみるまでも無く、偶然のなせるものです。あの時、思い切って会社を辞めなければ、出会うことのなかった人、あの駅で乗り換えなければ、会うこともなかった人、、、、、、
自分の力の及ばないところで用意されている出会いの積み重ねで人生は形成されていくのだと、つくづく思います。

そういえば「出会う」がキーワードの、好きな詩があったっけ、と思い出して古いノートを引っ張り出してみると、飯島耕一さんの「探す」という詩を書き写してありました。改めて読んでみると、「出会う」というよりは「はぐれてしまった」詩のようですが、好きな詩なので思い出したついでに紹介します。

「探 す」

飯島 耕一

おまえの探している場所に
僕はいないだろう。
僕の探している場所に
おまえはいないだろう。

この広い空間で
まちがいなく出会うためには
一つしか途はない。
その途についてすでにおまえは考え始めている。

これは、出会った二人の愛がはぐれてしまった詩なのか、それとも人生の中ではぐれてしまった自分自身を探しているのか。短い詩というのは、思わせぶりです。

詩人、岩田宏さんのこと

iwatajpgTVなどで耳にした曲が気に入って、アルバムを借りて聞いてみると、結局その一曲しか聞くものがなかったりするのはよくあることです。
私にとって音楽CDは繰り返し聞くことが前提で、読書するみたいにいろんなジャンルをあれこれ聞いてみたい、という興味の対象ではなく(音痴だし、カラオケ行かないし)よっぽど気に入ったものじゃなきゃ買いません。
CD一枚丸ごと好きじゃなきゃ聞きたくもない、というところで選んでこの10年、丸ごと好きになったアーチストは1組しかいないため、この10年、ずうっと同じアーチストのCDをカーステレオで繰り返し聞いています。

私にとって詩集も音楽と似ています。
好きな詩に出会ってその人の詩集などを本屋さんで立ち読みしてみると、一冊の本から好きな詩はその1編しかなく、買うまでに至らないことが多い。もっとじっくり読んでみようと購入したものもあるけど、そういう本は年月を経ていつのまにか私の手元から消えています。

昔購入して今でも手元に残っている数少ない詩集の一つに「岩田宏詩集」があります。
今ではほとんど開くことはないのですが、詩の断片はひょいと現れて記憶の中で唄いだすことがあります。

ねむたいか おい ねむたいか
眠りたいのか たくないか
ああいやだ おおいやだ
眠りたくても眠れない
眠れなくても眠りたい
無理な娘 むだな麦
こすい心と凍えた恋
四角なしきたり 海のワニ

「いやな唄」から

酔っ払いの、韻を踏んだ戯言、といえないこともないけれど。
彼の詩はどれも酔い加減と目覚め加減がちょうどいい加減で、気に入っています。

そういえば岩田宏さんてどんな方なんだろう。今も詩を書いておられるのかなあと検索してみると、意外な事実が分かりました。
岩田宏さんは1975年頃から詩を書くのはやめて、その後小説など書かれているようですが、「ロシア語・英語・フランス語に堪能な名翻訳家としても知られている」とありました。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
翻訳家としては本名の小笠原豊樹名義で推理小説やSFなどを多く手がけているとのこと。以前話題になった、ソルジェニーツィン「ガン病棟」の訳者でもあり、SFではレイ・ブラッドベリ の翻訳も。
私はレイ・ブラッドベリの本はほとんど読んでいるので、知らず知らず岩田宏さんの仕事に何度も出会っていたようです。

検索していると、私同様に彼の詩を紹介しているブログにいくつか行き当たりましたが、その中でちょっと驚きのサイトがありました。
蛙の庭・縦書きたい写真日記 縦書きHTMLソース作成「縦書きたい」を使った縦書きブログ日記』
以前企業サイトで縦書きを眼にしたことはありましたが、個人ブログでは初めてです。
できるんですねえ、縦書き日本語ページ。
縦書きの美しいページで詩が紹介されていて、岩田宏さんの詩は戯言にみせかけて、実はとても美しく叙情的なとこがあるのだってことも伝わってきます。

私もどれか好きな一編をここに紹介しようと、改めて詩集をめくってみましたが、詩集一冊丸ごと好きなので選びづらい。それにほとんどの詩が長いのです。そこを無理やり抜書きしてみました。

「悼む唄」

おれに妹をつくりもせず
両親は死んだ
おれは念力で妹をつくりだし
ふたりで
タオルを持って
深夜のプールの
ざらざらのふちに立ち
泳ぎ寄るマリリン・モンロウを迎える
雨雲 切れろ 月 顔を出せ

妹はカルキの匂いをいっぱいに吸いこみ
マリリン・モンロウは仰向いて語りかける
「タオル貸して!
水は詩のように
流れてなめらかで
拭くのがもったいないけれど!
この一年間
あなたは何をしてらした?
死は夢みたい
夢は水みたい
この世でもあの世でも
まじめはまじめ ぐうたらはぐうたら」
髪の濡れた女の右手を妹が
左手をおれが掴んで
一挙に引き上げる。

「マグマ」真山 仁

magma出版社: 朝日新聞社 (2008/3/7)

内容紹介(Amazon.co.jp)
外資系ファンドの野上妙子は、地熱発電を運営する会社の再建を任される。地熱発電に命をかける老研究者、それを政争に利用する政治家、欧米からの執拗な圧力など、さまざまな思惑が交錯する中で、地熱ビジネスは成功するのか──地球温暖化、石油価格の高騰、原発の安全性が叫ばれる今、地下エネルギーの可能性と未来を予感させる、ドラマ『ハゲタカ』の著者が描く大型経済情報小説。

真山仁の「マグマ」を読み終わりました。
時間があれば一日で一気読みしたくなる面白さでしたが、逸る気持ちを抑えつつ1週間かけて完読。
あらすじは以下の通り。

 「外資系ファンドの野上妙子は、地熱発電を運営する会社の再建を任される。地熱発電に命をかける老研究者、それを政争に利用する政治家、欧米からの執拗な圧力など、さまざまな思惑が交錯する中で、地熱ビジネスは成功するのか―ドラマ「ハゲタカ」の著者が描く大型経済情報小説。 (「BOOK」データベースより)」

以前私は「原子力と放射性廃棄物の地層処分について」という市民コミュニティに参加し、CO排出の少ないクリーンエネルギーとして、水力、風力、太陽光発電などがあるという話を聞きましたが、その際「地熱」という発電事業についてはとりたて説明がなかったように思います。
たいして注目に値しない発電なのか?それとも原子力発電に取って代わる日本の新しいエネルギーとなりうるものなのか?「地熱発電」への興味を持って「マグマ」を読み始めました。

まず、「発電のしくみとは」という基本から書かれているのがありがたい。
「発電とは何かの力を借りてタービンを回し、そのタービンが電気を起こす、という極めて単純な構造」
そのタービンを回す物質は原発でも水力でも火力発電でも同じ、”水もしくは水蒸気”なのだそうです。
水力発電は水そのものの力を使いますが、他の発電は「水を気化させる時の勢いでタービンを回す。原発も火力(発電)も水を沸騰させるためのコンロの役割をしている」ということです。

地熱発電のしくみはというと、

「火山や天然の噴気孔、温泉、変質岩などがある、いわゆる地熱地帯と呼ばれる地域では、深さ数キロメートルの比較的浅いところに1000度前後のマグマ溜りがあります。そして地中に浸透した雨水などがマグマ溜りによって加熱されて、地熱貯留層を形成することがあります。」(「日本地熱学会」のHPから引用)

この地熱貯留層(熱水溜まり)に温泉を掘る要領でパイプを通すと、地下から熱水が噴き上がり、地表に出た時には蒸気になっている。地熱発電はその力でタービンを回すので、水を沸騰させる動力は要らない。わざわざ大量の水を用意する必要もない。つまり資源コストはほとんど掛からない。火力燃料は一切使わず、原発のような放射能漏れの心配もない。火山列島日本国においては、すべて自然が与えてくれる究極のクリーンエネルギーという訳です。

「夢の代替エネルギー、そう騒がれても当然なのに、なぜこのエネルギーを今まで知らなかったのだろう。」とヒロイン野上妙子は素朴な疑問を持ちます。そして、その答えは・・・・

この本は、ヒロインの魅力と彼女をとりまく物語のスピーディな展開に乗せて、地熱発電及び日本の発電事情を分かりやすくレクチャーしてくれます。

地熱発電のしくみについては「日本地熱学会」のHPに図解入りで詳しく紹介されています。