年別アーカイブ: 2012年

「人間はどこまで耐えられるのか」フランセス・アッシュクロフト

dokomade出版社:河出文庫
発行:2008年5月10日(初版)

人間はどこまで耐えられるのか-辛い環境に追い込まれたとき、心はどこまで耐えられるか、という話ではなく、生きるか死ぬかの極限状況における、肉体そのものの限界について書かれた本です。

著者は「オックスフォード大学の生理学部教授で、インシュリンの分泌に関する第一人者」だそうです。学者の書く科学の本ではあるけれど、ユーモアある軽妙な語り口に、専門的知識がない私にも楽しく読める本になっています。ただ人間の命の限界を扱っているだけに、ユーモアもちょっとブラックになりがちですが。

本書は
第1章、どのくらい高く登れるのか。
第2章、どのくらい深く潜れるのか。
第3章、どのくらいの暑さに耐えられるのか。
第4章、どのくらいの寒さに耐えられるのか。
第5章、どのくらい速く走れるのか。
第6章、宇宙で生きていけるのか。
第7章、生命はどこまで耐えられるのか。
と7章編成になっています。

私は高山病になるほど高い山に登ったことはありません。スキューバダイビングも経験がないし、その前に泳ぐことすらできないカナヅチ。凍てつく冬のバルカン半島に行ったこともなければ、クウェートの灼熱の砂漠の存在すら知らない。50mを全速力で走って8.8秒(中学時のタイム)の鈍足だし、宇宙飛行も今後する予定はない。
危険なことや危険な場所に自ら飛び込むような冒険心も運動能力も、一切持ち合わせていないのです。

それに引き替え、世の中にはなんと冒険心あふれる人々が多いことか。
極限の過酷な環境のもと、命がけで仕事をする人々がなんと多くいることか。
そして、自らの身体を実験台にして、肉体的限界を見極めようとする研究者たちや、限界に挑戦した探検家や冒険家やアスリートたちの成功と失敗の歴史。
期せずして極限状態に投げ出されてしまった人々の死と生還の記録。
それらの貴重なデータによって、テクノロジーが発達し、「人間の限界」が更新されていく・・・

本書は極限状態と戦っている人たちのエピソードが興味深く、冒険をしない私には感動を覚える1冊となりました。

「整形前夜」穂村 弘

seikei出版社:講談社 (2012/7/13)

『現実入門』を書いていた穂村弘さんも、結婚という生々しい現実を手に入れ、いまや「現実上級」資格取得者。
もはやイノセントな少年のままではいられなくなったからか、この『整形前夜』には、
「「今」をきっちり生きることができないために、そこから先の未来が次々に腐ってゆく。(非エレガンスのドミノ倒し)」
だとか、
「普通に真面目に働き続けることで幸福になれた時代は終わって、同じ道が今では「絶望」に繋がっているのではないか。(「普通列車「絶望」行」)」
なんていう、極めて現実を見据えたセリフも出てきたりします。
今回は妄想の天使も現れない。
ただし、のっけから、彼の留守中に部屋を整頓してくれるという「妻」が登場します。「結婚したんだもん!」というアピールでしょうか?いや、単にノロケたいだけでしょう。
妻と古本屋めぐりをしていることとか、一緒にグアムに行ったこととか、もう臆面もなく書いちゃっています。「人生はぴんとこない戦いの連続だ」と、怯え戸惑いながらも、しあわせなんですね。きっと。

それはさておいて、「中身がどんなものでもこれなら即買う、という傑作タイトル」の話が面白かったので、私も真似して、これまで読んだ本の中からタイトルが気に入ったものを書きだしてみました。
が、・・・・案外、思い出せないものです。

「幽霊の2/3」ヘレン・マクロイ
「時計じかけのオレンジ」アントニイ・バージェス
「幻の女」や「私が死んだ夜」/コーネル・ウールリッチ(=ウィリアム・アイリッシュ)
「10月は黄昏の国」/レイ ブラッドベリ
「月は無慈悲な夜の女王 」/ロバート・A. ハインライン
「笑う警官」/ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァル共著
「箱男」や「壁」/安部公房
「限りなく透明に近いブルー」/村上龍
「摩天楼の身代金」/リチャード・ジェサップ
「すベてがFになる」/森 博嗣
「潜水服は蝶の夢を見る」ジャン=ドミニック・ボービー
「意思ばかり生む夜」/小西 啓
「ハルビン・カフェ  」/打海 文三
「あなたの人生の物語 」/テッド・チャン
「ここがウィネトカなら、きみはジュデイ」大森望編
「冷たい方程式」/トム・ゴドウィン

穂村弘さんの本もタイトルに魅かれます。「世界音痴」や「本当はちがうんだ日記」も好きなタイトルで、中身もタイトルのイメージを裏切らない。
しかし、この『整形前夜』はちょっと予想外でした。
タイトルから私が想像したのは、常日頃、素敵男子になることを熱望してやまない作者のことだから、ついに整形したか!小心者だから、たぶんプチ整形に手を出したに違いない、というものでしたが、全くハズレ。
『整形前夜』はノーマ・ジーンがマリリン・モンローに変わる、その前夜について語ったものでした。
「男たちは多くを期待しすぎるけれど、私には応えてあげることができない。彼らは、鐘が鳴るのを、汽笛が鳴るのを期待する。でも私の体は他の女性たちと同じなの」
マリリン・モンローの言葉だそうです。
「分かる、分かる」と、言ってみたい。

「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿

zetubouno出版社: 講談社 (2011/9/6)

日本という国はつくづく若い人間を大事にしない国だと思う。

昭和時代、第二次世界大戦末期に実施された、戦死を前提とした特攻隊(特別攻撃隊)に駆り出されたのは、10代から20代の若者たち。若者の命を爆弾1個分と引き換えにするという、とんでもない作戦を考え付いたのは、当時の大人たちでした。

平成の現代においても、国の財政破綻のしわ寄せは若者にきています。

パート、アルバイト、派遣、契約社員など、安くてクビにしやすい労働力として、非正規雇用の若者が増え続けている。2011年には15~24歳非正規比率が男49.1%、女51.3%というデータもあります。( 「社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune」本川 裕
会社都合でいつクビになるか分からない非正規社員という身分は、若者たちに結婚や子育てを含む将来設計を立てにくくしています。国民年金を掛けられる余裕はないし、そもそも将来社会保障が機能しているかどうかも保証がない。

7月5日、大飯原発3号機は発電を開始しました。原発は安全性の問題も放射性廃棄物の処理も、すべて先送り。若者たちが原発のリスクをこの先ずっと背負い、将来彼らや彼らの子どもたち世代が何とかすればいいだろう、って一部の大人たちは考えているのです。

日本は若者が未来に希望の持てない国になっている。それは確かだと思う。

しかし、社会学者古市憲寿氏は、「絶望の国の幸福な若者たち」の中で

「2011年現在、若者たちは過去の若者と比べても、『幸せ』だと思う」

と言っています。
「絶望の国の幸福な若者たち」は、この26歳の社会学者によって書かれた若者による若者目線の若者論です。
著者は大量の資料やデータをもとに、過去の若者世代やこの国の近代化を検証し、現代の若者の「幸せ」を立証しようと試みています。

驚いたことに、 2010年の時点で20代の70.5%が現在の生活に満足しているという「国民生活に関する世論調査」があるそうです。
この満足度は70代以上の次に20代が高く、40代から50代はぐんと低くなる。若者の親世代の方がよっぽど日々不満を抱きつつ、生活していることになるようです。

とは言え、この満足度は未来に希望が無いからこそ高くなるとも考えられる。

「もはや自分がこれ以上幸せになるとは思えない時、人は『今の生活が幸せだと答えるしかない。

というわけです。

読み進めるうちに、この国の現状は若者世代だけに特に厳しいわけでなく、どの世代にもまんべんなく世代内の格差があること、大多数の一般人にとって、老いていくほどに暮らしにくくなる社会であるということがはっきりしてきます。
まあ、既にみんなが気が付いていることではあるけど・・・・

私自身も将来のことを考えると気持ちが凹むポジションにいるので、何とかささやかな幸せを身近なところに作り、今の生活に満足しようと考えたりしています。中高年だって結構若者と似たような状況です。
でも「今の生活に満足していますか」と聞かれたら、「満足している」とは、まだ答えたくはない。
何が起こるか分からないのが世の中さ、って思っています。
今の若者たちの中から 10年先、20年先、日本を変えるような人物が現れないとも限らない。
若者を、いや若者だけでなく、国民を大事にする大人の国になっているかもしれない。
根拠はないけど、希望は持っています。

著者はクールなヤツなのか、ただの皮肉屋なのか、クールで皮肉屋なのか、最後にこうも言っています。

「『日本』がなくなっても、かつて『日本』だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである」

もろ手を挙げて同意はできないけど、最近やたら聞こえてくる「国益」「国益」って言葉をきくと、「国」より大事なのは「人」でしょ、って私も思います。

アンダー・コントロール

映画『アンダー・コントロール』
原題:Unter Kontrolle/2011年ドイツ映画

先日、ガーデンズシネマで映画『アンダー・コントロール』を観ました。
ドイツの原子力発電関連施設を3年間にわたり取材したドキュメンタリーです。
各原子力発電施設等を一つ一つ、ほとんど映像のみで、淡々と映し出していくだけなので、予備知識が無いと、ちょっとわかりにくい内容でした。
キャッチコピーが「映画で見る“原発解体マニュアル”」

ドイツでは2022年の原発撤退に向けて、着々と準備が進められているそうです。
巨大な原子炉を廃炉にしていく危険な作業の工程も冷静に見つめている映画ですが、じんわりとした恐怖が浸み出してきます。

この映画で衝撃的だったのが、「ワンダーランド・カルカー 」という遊園地のシーン。
運転中止になった原発を遊園地として利用しているのですが、冷却塔の上では高さが58メートルもある回転ブランコがぐるぐる回り、観客たちが歓声をあげる。悪夢とも思える光景なのですが、これはこれで原発の再利用になっているようです。


ワンダーランド・カルカー
高速増殖炉SNR-300(またはカルカー増殖炉)は、日本のもんじゅと同時期にドイツで初めて運転される予定だった高速増殖炉である。1985年に試運転を開始したものの、1986年チェルノブイリ原子力発電所事故をきっかけにそれまで継続していた反対運動がさらに勢いを増したことで、本格運転に至らないまま、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府から運転許可の取り消しを受けた。さらに、建設コストが当初予定の18億マルクから80億マルク以上になり、原発推進の立場だった連邦与党のドイツキリスト教民主同盟は、1991年にコスト面の問題を理由に計画中止を発表した。ヘンニー・ファン・デル・モストが所有者である電気事業者から原子炉施設を買い取った後は、まず遊園地の整備が始まり、冷却塔の外壁がクライミングウォール、中央制御室がレストラン、タービン室がトイレ、消防隊室がボウリング場、そして原子炉建屋がホテルに改装された。プルトニウム燃料が入ることのなかった原子炉自体も、「原子炉内探検ツアー」が体験できるよう、底部に電飾を施して見学者を受け入れた。こうした経緯から、SNR-300をドイツの「脱・原発」の原点とみなす意見もある。
ウィキペディア「 ワンダーランド・カルカー」より抜粋

原子力事業は、続ければ続けるほど危険を上積みしていくだけ。
再稼働なんて言ってる場合じゃないです。
今優先される課題は、廃炉のための技術開発や放射性廃棄物の安全な処分。
それが、今回の原発事故への責任の取り方ではないか、と思うのですが・・・ 

レディオヘッドと「1984年」

「わたしはずっと恋焦がれていたのである。フジロックに。
どこかの山奥で、なにやら楽しげなフェスティバルが毎年開かれていることは、雑誌の記事等で知っていた。」
これは、奥田英朗のエッセイ「用もないのに」(文春文庫/2012年)の遠足編、「おやじフジロックに行く。しかも雨・・・・。」の書き出しです。youmonainoni
これを読んで私は、フジロックという日本最大規模の野外音楽フェスティバルがあること、しかも私が20代の頃好きだったニール・ヤングが出演したりもすることを、今年になって初めて知りました。

今年も7月29日、30日、31日の3日間開催されたようです。
そして今年はなんとレディオヘッドが登場!

1998年のある日「OKコンピューター」を聴いて以来、私はレディオヘッドのファンになり、それ以降アルバムを買い続けて、それ以前のものも全て手に入れ、なによりも新しいアルバムが出るごとにその音楽性が好きになっていく稀有な存在。
ファンとしてはフジロックに飛んで行きたいところでしたが、鹿児島県民にとって新潟県蔵王は遠すぎます。むしろ韓国の方が近い。
会場に入ってからも何万人の人波の中を泳ぐなんて、私にはそんなエネルギーはありません。若くないのです。

さて、レディオヘッド繋がりで、ジョージ・オーウェルの「1984年」をメモしておきます。
レディオヘッドの6枚目のアルバム『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』の1曲目「2+2=5」は、この「1984年」にインスパイアされて作られたものです。
不安を掻き立てるような印象的な曲で、プロモーションビデオのアニメーションが、ちょっとエグい。 

「1984年」を読むと、なるほど、そんなイメージがある小説でした。

1984

 1984年[新訳版]  ジョージ・オーウェル

早川書房; 新訳版 (2009/7/18) 高橋和久 訳
内容(Amazon.co.jp 「BOOK」データベースより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

1949年に書かれた近未来小説です。和暦で言えば戦後まもない昭和24年。
約30年後の近未来、1984年(昭和59年)を舞台に書かれています。
1984年、世界はオセアニア、ユーラシア、イートネシア、三大国にまとめられ、この三国は常にどちらかの国と戦争状態にある。
オセアニアは極度に管理された全体主義社会であり、党の幹部、一般党員、プロール(貧民労働者)の三つの階層で構成され、常に「テレスクリーン」によって、党員たちは24時間監視されている。というのがおおまかな設定。党には、名前と実態が裏腹な4つの省があります。

  • 「平和省」・・・戦争の遂行。
    「豊富省」・・・不足する食料や物資の、配給と統制を行う。
    「真理省」・・・歴史記録や新聞を、党の最新の発表に基づき改竄する。
    「愛情省」・・・拷問担当。

全てが「二重思考」のもとに運営される社会です。
「二重思考」とは、「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」
作品の中で幾度も繰り返される『2+2=5』。これも二重思考で考えると、2+2=4であることを知っているが、2+2=5であることが真実であることを疑わないこと、となります。

「二重思考」のほか、社会を管理統治しやすくする装置として、

  • 二十四時間監視する・・・「テレスクリーン」
    単純化された言葉・・・「ニュースピーク」
    仮想敵を想定して、これを憎悪させる・・・「憎悪週間」、「二分間憎悪」
    反逆者には拷問・・・「思考警察」、「非在人間」

などなど、作家の生み出した造語にはインパクトがあります。

作品の中で主人公ウィンストン・スミスはテレスクリーンの死角をみつけ、こっそり日記にこんな言葉を書きます。

自由とは2足す2が4であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

恋に落ち、自由を求める主人公とその恋人。拷問による服従に「愛」は勝てるのだろうか?
語り尽くせない本です。読むべき1冊だと思います。
付録の「ニュースピークの諸原理」、トマス・ピンチョンによる28ページに及ぶ解説も必読です。
蛇足ながら、訳者あとがきによると、英国で「読んだふり本」第一位の本でもあるそうです。

「モダンガール論」斎藤美奈子

modrnモダンガール論/文春文庫
発行/2003年12月

米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」で紹介されて知った本なのですが、米原万里さんも指摘している通り、タイトルで損をしているかもしれません。
読む前は、「大正時代のコギャル論」といったものを想像して、お手軽なサブカルチャー本かなと。

しかし、読んでみると、明治から大正、昭和、20世紀100年間の女性の歴史。驚きも感動も笑いもある痛快な一冊でした。これ以後、私は斎藤美奈子さんに嵌ってしまいました。

「女の子には出世の道が二つある。立派な職業婦人になることと、立派な家庭人になること」「颯爽としたキャリアウーマンと優雅なマダムのどっちが魅力的な人生か。結婚するのと仕事をつづけるのとどっちが得か。両方とも手に入れる良策はないか。片一方を断念したら損をしないか」という女の子の出世願望を、100年の歴史の中で見ていく。コンセプトは「欲望史観で女の子の近代を読む」です。
そしてモダンガールの定義は「欲するままに万事を振舞う女」「我慢しない女」

著者が膨大な資料を読み解き引用しているので、その時代時代の女性たちの生の声が聞こえてくる本となっています。その声は現代の私たちの悩みとも共鳴します。
たとえば「育児と職業の両立、職場の待遇差別から主婦の自立論」などなど、現代の私たちが直面しているような問題は大正時代からすでにあった。
しかし、そんな問題を声に出して訴えることができたのは、ほんの一握りの恵まれた女性だけ。「ブルジョア婦人のぜいたくな悩み」でしかなかったという。
ほとんどの平民女性は自分の人生など、どうにもままならない貧困の中にいました。
当時は「『性差別』よりも、『階級的な矛盾』のほうが、はるかに深刻だった時代」だったといいます。

現在を見渡してみると、「高度経済成長期」(1960年所得倍増計画から1973年第一次石油ショックまで)を経て、1980年代「国民の90パーセントが中流意識をもっている」と言われるまでになった日本ですが、バブルがはじけ、いまや経済格差社会。
21世紀はまた階級社会に逆戻りってことでしょうか?

後書きで著者は「21世紀の課題は、『出世を目指すか、出世から降りるか』である」と書いています。
社会経済の変化に、人の意識・思想は左右されてしまうものですが、まだ選択の余地があるだけ、私たちの祖先の時代よりマシかもしれませんね。

ところで、蛇足ながら、「結婚の条件/小倉千加子著」の中に「主人がなくなってからも、残された家族が30年間まったく働かずに食べられる家をブルジョアという」とあります。
ひえ~、です。

「山田 利喜子・押川 珠江  二人展」行ってきました。

sage「山田 利喜子・押川 珠江  二人展」行ってきました。
今年4月にオープンしたばかりのギャラリーセージ。
新たに鉄製の透かし看板が設置されていました 。これは通畠義信氏が制作したものとのこと。素敵ですねえ。

goods2皮革染色工芸作家の山田利喜子さんは、1973年頃より革工芸を始め、県内の公募展に出品し、南日本女流美術展で南日本新聞社賞を受賞した実力派です。
これまで個展やグループ展を多数開催、参加されてきた方ですが、ここ数年は家庭の事情により活動休止中でした。今回は久しぶりの作品展となりました。しかし今後またしばらく休眠するとのことですので、ぜひこの機会に多くの方にギャラリーを覗いて欲しいと思います。
当サイトでも紹介しています。こちらもご覧ください。
http://art-container.net/galleries/kawa/
bag02バッグのほか、ランプやお財布、革のコサージュなどの小物も出品されていましたが、なんといっても個性的なバッグが目を引きますね。デザインも染色も個性的。手に持ってみると、かなり軽く使い勝手も良さそうです。bag04

いつだったか、だれが言ったのだったかは覚えていませんが、こんな言葉をききました。
「どんなバッグを選ぶかは、どんな恋人を欲しがるかと同じだ」
そして「自分のバッグをどう扱うかは、恋人に対する扱いと同じだ」とも。
それを聞いたとき、私は妙に納得したものです。
街を歩いてみると、見事に皆それぞれ異なるバッグを手にしています。
エコバッグやスポーツ、旅行などの実bag03用的なバッグは別として、普段身に着けるバッグはデザインや色、柄が違う一点物売りが当たり前の商品ですね。実用性を最優先にするか、自分に似合う、自分にぴったりのバッグを探し続けるか、あるいは多くの人が絶賛するブランドもののバッグに憧れるか、紙袋でもOKか、もしくは何も持たない手ぶらの気楽さを好むか、人それぞれですが・・・。

bag06

huku01huku03

huku04話しがそれました。
「2人展」のもう一人の主役、押川珠江さんは、大島紬などの和服地で仕立てた、〝小粋な”という表現がしっくりくるコートやジャケットなどを出品しています。鹿児島市在住。自宅アトリエで注文仕立てをされている方です。
今回、「戴きものの生地を使ったから」という理由で、贅沢な素材にもかかわらず、お手頃価格で出品されていました。

案内状に掲載していた黒のトレンチコートは早々売れてしまったようです。

山田利喜子さんの新作バッグも、既に数点売れている状態で目にすることができず、それが残念でした。

huku05

huku02

huku

山田 利喜子さんと押川 珠江さんによる二人展。
秋を奏でるためのバッグ&コート

11月9日(金)~11月20日(火)
(水・木曜日はお休みです)

ギャラリー セージにて

[mappress mapid=”1″]

山田 利喜子・押川 珠江  二人展

59-1山田 利喜子さんと押川 珠江さんによる二人展が開催されます。

秋を奏でるためのバッグ&コート
11月9日(金)~11月20日(火)
(水・木曜日はお休みです)
ギャラリー セージにて

(11月が近くなったら案内状をアップしようと早くから準備していたのに、11月はもう3日も過ぎてしまいました。
ホントにウカウカしていられない…秋です。)

小西 啓の二冊の歌集について

   ♦  いつかまた
     出会えるような雰囲気を
     自分はいつも残せずにおり

   ♦  雑踏の中で
     見つけた真実か
     俺も他人の足を踏んでおり
 
   ♦  急激に悲しくなりき
     反抗期終えてしまえば
     何もない俺

           『こうしなければ生きていけなかった』より

10数年前、地方新聞に載った上記の短歌3首をたまたま目にして、小西啓さんという歌人を知りました。ずっと心に引っかかっていて、だいぶ経ってから二冊の歌集を購入しました。
あまり知られているとは思えない歌人なので、少し紹介してみたいと思います。

《プロフィール》 

1976年11月4日、京都に生まれる。
14歳の頃より独学で作歌を始める。
高校1年生の秋、学校が嫌になり休学。単身北海道に渡り、酪農家の元で牛の世話をしながら半年間過ごす。復学後は、親元を離れて安アパートを借り自活しながら通学する。卒業後、書きためた短歌ノートを手に上京。アルバイトをする傍ら、自作の原稿を出版社に売り込み続け、20歳の時に『恋人よ、ナイフを研いでくれないか』(発売・星雲社/発行・ 創栄出版 1997年5月)、
その翌年には『こうしなければ生きていけなかった』(発行・現代思潮社 1998年6月)を刊行。

   「意志ばかり生む夜」著者略歴より
        (2000年12月発行無明舎出版)

『こうしなければ生きていけなかった』は1998年、21歳の頃に出した小西啓さんの2冊目の歌集です。
捨てた故郷に向けて詠まれた歌の数々。
親に背いて親を想い続け、友を拒みながら友を求めている。
居心地の良い場所からは、いつも立ち去り、
光を求めているのに、暗い狭い道を選んで歩く。
社会に順応できない、人に馴染めない、自意識過剰でナルシストで甘ったれで、いじけていて、まるで、そのまんま21歳の頃の自分みたい、と遠い昔を振り返らずにはおれない中高年の方も多いのではないかと思います。もちろん私も。

     ♦  日が落ちて家に灯がつく気味悪さ
       裸電球
       風もなく揺れ

           『こうしなければ生きていけなかった』より

『意志ばかり生む夜』は24歳の時に出版。東京の暮らしに慣れ、「不意の寂しさに立ち寄る場所」を見つけたり、反面、思うように短歌が作れないもどかしさも歌われていたりします。
 

     ♦  一日の終わりはどこにあるのだろう
        夜は長くて意思ばかり生む

     ♦  脱サラのサックス吹きが
        高架下
        出だしの音を繰り返す街

     ♦  立ち去るのが好きな奴らが
        とどまりて
        リキュールの夕日眺めていたり

              『意志ばかり生む夜』より

キラキラ輝く昼と、惨めで孤独な夜を持つ青春。
地味さや暗さを恐れる若い時分には、共感したとしても認めたくない歌かもしれません。
もう少し派手なエンターテインメント性がある手段を選んでいれば、若者受けしたかもしれません。
しかし、小西啓さんは、自己表現の手段として、「短歌は回りくどくなくて、性に合う。」と書いています。


俺は短歌を書く。
十四歳の夏からだ。
短歌は、短い言葉と定型で自己を表現する。
回りくどくなくて、性に合う。
この歌集は、俺の物語の断片だ。俺のすべては説明できない。
日ごと夜ごと創作に没頭するが、朝になれば俺はもうそこにはいない。
だが、
それらの日々の作品を一つ一つ結んでいくと、最後に何かが現れてくる。
まるで、煤けた壁に落書きされた、哀れな自画像のようなものが。
俺の歌集は、それだ。

              『意志ばかり生む夜』より

 konosi01konosi02

「詩とことば」荒川洋治

sitokotoba「詩とことば」 荒川洋治


発行:2012年6月 岩波現代文庫
知らないうちに私たちは、生活のなかで、詩のことばを生きている。しかし、詩とは、なにをするものなのか?その意味を考えることは、私たちと世界とのあたらしい関係をひらくことにつながっている。詩をみつめる。詩を呼吸する。詩から飛ぶ。現代詩作家が、詩の生きる時代を照らしつつ、詩という存在について分析する。
(背表紙から)


近年、詩がメディアに登場し話題になった出来事と言えば、昨年の東日本大震災のあと、企業CMの代わりにテレビで流れたACジャパン(旧公共広告機構)のCMが思い出されます。金子みすずの『こだまでせうか』や、宮澤章二の『行為の意味』という詩を、毎日何度も耳にしました。
あまりに大量に流されたため、ACジャパンはヒンシュクを買ったけど、ネット上、特にツイッターなどでは詩のパロディが競い合うように次々と出回ったり、「それぞれを収録している詩集がAmazon.co.jpでベストセラーランキングで上位を獲得した(ウィキペディア「ACジャパン」より抜粋)」りして、詩のことばが多くの人の心を動かしたのも事実です。
子どもに言ってきかせるような、分かり易さが受けたのでせうか?

しかし、まあ、それも、一時のブームだったかもしれません。
私の主観ですが、詩はこの21世紀において、割と居場所がないような気がしています。
私の、今までのどの職場でも、詩の話で盛り上がったことは、まずなかったし、普段の日常会話でも、詩はおしゃべりには向かない素材です。
休憩時間や仕事の合間に、現代詩について語り合う職場・・・・そういう場面を想像してみると、詩が好きな私でも、楽しいというより、なんだかちょっと鬱陶しい気がします。
何故、そんな風に思うのでしょう。

「詩とことば」の冒頭で荒川洋治さんは、
「詩にはことばのうえ、かたちのうえで、いくつかの特色がある。それらは読む人に楽しみと喜びを与えるいっぽうで、負担や不安を感じさせることもある」
と書いています。本当にその通りだなあと思います。
何故、詩が負担や不安を感じさせるのか。
詩には、一行ずつの順序で進んでいく行分けというスタイルがありますが、これが読む人になじみにくいものだといいます。

「詩のかたちをしたものは、なじみにくいものなのである。それはなぜか。行分けには、作者その人の呼吸の仕方がそのまま表れるからである。その人のもの、その人だけのものだから他の人はその人の呼吸に合わせることはできない。それが壁になるのだ。」

なるほど、詩を読んでいて、何となく絡みづらい人と話しているような気分になるってことありますね。逆を言えば、心にすっと入ってくる詩というのは、無理せずに話ができる人に出会ったような、そんな気持ちよさがあります。

この「詩とことば」にはいくつかの現代詩が取り上げられていますが、その中から短い詩をひとつ紹介します。


「五十年」
                    木山捷平

濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな
どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた


「2人展」行ってきました。

ただ今「ギャラリーセージ」にて、通畠義信さんと通畠朋子さんによる「2人展」が開催されています。
開催期間 7月13日(金)~24日(火)
開催時間 11:00〜18:00(定休日:水・木)

sage「ギャラリーセージ」は今年4月にオープンされたばかりのギャラリーです。
私は昨日初めて訪れました。

城西2丁目、大通りから1本脇道に入った閑静な住宅街の一角にあります。
周囲には鹿児島高校、西警察署、城西中学校、鹿児島環境未来館など、目印になる施設が多いので、極度の方向音痴の私でも大丈夫、地図どおりにたどり着くことができました。

tetu09今回、通畠義信さんの作品は、鉄のキャンドルスタンドがメインです。
手のひらサイズから、1m以上(目測)の高さのあるもの、壁に掛けられるタイプなど、大きさも形もさまざま。
鉄のキャンドルの他には、石と鉄のコンビネーションのオブジェや、彩色を施されたユニークなオブジェが展示されていました。tetu01

hanga01jpg

通畠朋子さんの版画は、当サイトに掲載している「POCKET物語 シリーズ」と、その他、まだご紹介していない、というか、私も初めて目にする作品が多く、嬉しかったです。
いずれ額なしの状態の写真データをいただいてから、「銅版画」TOMOKO・T・TORIBATTA に掲載したいと思います。hanga02

今回、私が写真をうまく撮ることができなかったため、ここでの紹介もままならないので、是非、ギャラリーにて、多くの方に実際の作品をご覧いただきたいと思います。
 ユニコーンが二人、特別参加です。
doll01

「ギャラリーセージ」
水曜日、木曜日は休館日です。
〒890-0041   鹿児島市城西2丁目10-22
TEL;099-210-5802

「2人展」開催のお知らせ

52-1鉄の作家、通畠 義信さんと版画家、通畠 朋子さんの「2人展」が、今年4月鹿児島市城西2丁目にオープンしたばかりのギャラリーセージで開催されます。
“鉄”と“紙”。異なる素材の作品展、楽しみです!

開催期間 7月13日(金)~24日(火)
開催時間 11:00〜18:00(定休日:水・木)

「ギャラリーセージ」
〒890-0041   鹿児島市城西2丁目10-22
TEL;099-210-5802

[mappress mapid=”2″]

facebookのタイムラインに広告が表示される!解決

突然、Facebookのタイムライン上に広告が出るようになりました。
通常、スポンサー広告はFacebookページ右サイドに表示されるものですが、タイムラインの中で、カバー写真の下側とか、投稿記事と同じ並びにどっかりと、サプリメントの広告や、何かのソフトのダウンロードボタンとかが現れました。
またまたFacebookの仕様が勝手に変わっちゃったのか?それにしてもタイムラインの中に表示するのはやり過ぎだよね、と思いつつよくよく見てみると、広告の下には「ads not by facebook」の文字が・・・・
Facebookが配信した広告ではないって、いったいどういうこと?

検索してみると、これはFacebookの仕様とは全く関係なく、私のPC側に問題があると分かりました。
つい最近、フリーソフトをダウンロードした際、勝手についてくるツールバーや悪影響のあるソフトを迂闊にも一緒にインストールしてしまったのが原因。
それらを削除したら、広告も出なくなりましたので、以下にメモしておきます。

①「Babylon Toolbar(バビロンツールバー)」を削除する。
英語サイトを読みたくて「Babylon 」という翻訳ソフトのお試し版をインストールしました。その際、「Babylon Toolbar」をインストールしますか?と聞かれたような気がするけど、スルーして次へ次へとインストールしてしまいました。結果、不要なインターネットツールバーが表示されるようになってしまいました。

「Babylon Toolbar」を削除するには、PCの「プログラムの追加と削除」でBabylon本体と、myBabylon_English(他の名前だったかも)という二つのソフトをアンインストールすればよいのですが、それだけでは完全に削除することはできないようです。ツールバーは残ってしまいます。
ツールバーを完全に削除するには、
Internet Explorerの場合→[ツール]→[アドオンの管理]→[検索プロバイダー] と開いて、「アドオンの表示と管理 」画面で「Babylon Toolbar」を選択して削除します。
下図のようにツールーバーの検索ボックス脇から「アドオンの表示と管理 」画面を開くこともできます。

adon

②「i want this」を削除する。
「Babylon Toolbar」以外に悪影響のあるソフトを入れていなければ、「Babylon Toolbar」を削除することでFacebook上の不要な広告も消えてくれるようです。
私の場合は「Babylon Toolbar」を削除したところで、広告が消えてなくなり一安心したのもつかの間、翌日にはまた広告が現れてビックリです。
他にも何かイケナイソフトが入っているようだと、「プログラムの追加と削除」を再度チェックしてみると「i want this」という、覚えのないソフトが入っていたので、これを削除しました。
そこでようやく、広告は表示されなくなりました。

「i want this」はネット上に広告を表示したりするアドウェアだそうです。
自分の意思でインストールしたものではないけど、「ああ、あの無料素材をダウンロードした時、一緒にくっついてきたのかなあ」と覚えがないわけではない。
「Babylon Toolbar」や「i want this」以外にも影響するソフトが多々あると思います。
これからは、ソフトをインストールする際、ちゃんと画面を見て「次へ」ボタンをクリックします(当然のことですが・・)。信頼のおけないサイトからむやみにフリーソフトをダウンロードするのはやめます。そういったところから手に入れたソフトや素材って、結局は使わない、使えない、ものだったりしますね。

「結婚の条件」小倉千加子

「結婚の条件」小倉千加子/朝日新聞社
発行/2003年11月

以前、斎藤美奈子さんの「モダンガール論」を読んで、女性史というジャンルに興味を持ったのですが、その斎藤美奈子さんが「本の本」で以下のような書評を載せていたのが、小倉千加子著「結婚の条件」。

kekkon女性の憧れをかきたてるカリスマミセスにもはやりすたりがあるらしく、ハイソ系の君島十和子の次に来ているのはナチュラル系の雅姫である。(・・中略・・)ままごとみたいな家庭生活の一端を見せるのが、いわば彼女の仕事であり、ロンドンやパリへの取材も娘同伴。それで麻と木綿と毛糸が好き、とかいってんだからいいわよねと凡人はひがむ。
にしても、なぜこんなカリスマミセスが次々登場してくるのか、そんな疑問にズバリと答えてくれるのが小倉千加子『結婚の条件』だ。(・・中略・・)男は収入、女は容貌。結婚とはカネとカオの交換だと小倉はいいきる。
「本の本/斎藤美奈子」より抜粋

カリスマ主婦ねえ。なんでそんなのが受けるのか、私も不思議に思っていました。
この本は、女性の結婚観の変遷を検証し、現在の晩婚化、少子化の原因を読み解く、真面目でちょっとミーハーな学問書です。
本にはたくさんの女性が登場しますが、その一人、ある未婚女性ディレクターはきっぱり言います。
「女は真面目に働きたいなんて思っていませんよ。しんどい仕事は男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」
平成の未婚女性も、昭和に結婚して現在中高年となった既婚女性も、「分かる、分かる」と頷ける現実が、ある意味身も蓋も無い本音が、満載の本です。

先日、小学2年生の双子女児と、映画「ジョン・カーター」を観ました。
この映画は100年前に書かれた、南北戦争の元南軍騎兵大尉ジョン・カーターが、火星のプリンセスを救うため、異星人たちと戦う勇者の物語です。
映画を観終わったあと、双子姉がポソっとつぶやきました。「男って女のために頑張るんだね」
恐るべし、7歳児。見るところは見ている。

この子が結婚する時代には、どんなことが「結婚の条件」になっているのか、気になります。
小倉千加子さんは、日本は晩婚化国、少子高齢国というより、将来は非婚国に移行していくと予想していますが、果たして?

まあ、どんな時代であろうと、勇者は 「上澄みを吸って生きていこうとする女」を、わざわざ命をかけて救いには来ない。それに、火星のプリンセスだって「絶世の美女で、勇気と情熱のある戦士」という設定だし。

原発再稼働本当にするの?

定期検査で停止中の関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)は、関西電力の安全計画について、「おおむね適合している」と認定され、政府は再稼働に向けてGOサインを出したようです。

野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相らは13日の協議で、関西電力大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の再稼働が必要との判断で一致し、福井県に協力を要請することを決めた。枝野経産相が14日午後、福井県に入り西川一誠知事やおおい町の時岡忍町長らと会談する。地元の同意が得られれば、首相らが改めて協議し再稼働を最終決定する。 
2012.4.13産経ニュース 「大飯原発再稼働を容認、地元に協力を要請へ」

 福島の原発事故から一年も経てば、喪が明けたとばかりに原発再稼働の話が出てくることは予想していましたが、福島の事故の後始末もできていない状態で、いまだ多くの避難生活者がいる現状で、原子力発電所の安全性の確認ができたなんて、戯言に過ぎない。
原発事故直後からこの一年間、東電や政府の対応を見ていれば、東電も政府も住民を守ることは二の次で、「理念なき政治」の茶番劇を見せつけるだけです。
はっきりしていることは、今の日本には原発を使いこなす技術が無いということです。しかももっと悪いことに、原発を稼働するほどに増殖する、高レベル放射線廃棄物を処理する技術も持っていない。

なのに大飯原発の再稼働を容認するなんて、またも、「事故は起こるはずがない」という想定で安全神話を押し通す気ですかね。
その安全神話と矛盾する話ですが、原発は電源三法で「人口が密集する大都会周辺に、危険な原発は作れない」という理由から、過疎地につくることが義務づけられているそうです。

過疎地だからこそ、原発のある自治体の住民から、再稼働を望む声があります。
原発事業が撤退すれば、地方自治体への巨額の電源三法交付金、助成金、住民の働く場所など、今まで原発から受けてきた恩恵を無くしてしまう。
原発関連企業のおかげでやっと生活している住民にとって、働く場所を無くすことは死活問題だってことも分かります。
しかし、非情な言い方をすれば、原発の受け入れを選択する際には、原発事故や電力会社の撤退や倒産といったリスクを想定していて当然だと思う。

民間の零細・中小企業なんて、いつだって倒産のリスクを抱えている。
民間の零細・中小企業に政府が税金を投入して守ってくれるようなことはありえないし、倒産した会社の失業者には、失業手当が早目に出る、給付期間が延長される、といった程度の行政支援しかない。
ガン患者は、手術はもちろん治療の一つ一つに、死や後遺症、副作用のリスクに同意する選択を積み重ねて、毎日を送っている。
 個人レベルでは、どんな選択にも自己責任がついて回る。

こういうと、電力事業と零細・中小企業や個人とでは、倒産したときに影響を受ける規模が違う、と言われるでしょう。
原発を無くすことは、一会社の従業員が失業するだけじゃない。無数の関連会社や電力供給を受けられなくなる、都会への影響も計り知れない、と言うかも知れない。

私が原発に反対する理由もそれです。倒産よりも事故を起こした時の影響の方が甚大で、日本だけでなく世界規模で損害と取り返しのつかない犠牲を強いることになるから。
個人レベルはおろか国レベルでも負いきれないリスクがあり、事故は決して起きないなんて安全神話を信じるフリなどしてはいけない。

是非下記のサイトも見てほしい。

ご当地キャラ「薩摩剣士隼人」!

昨日初めてその存在を知ったのですが、鹿児島のご当地キャラクター「薩摩剣士隼人」が面白いらしい。
日曜日朝6時15分からテレビ放映しているとのこと。
日曜日朝6時15分はキツイので、YouTubeを見てみました。

YouTubeはこちら→「薩摩剣士隼人 第1話 だいやめをすっど!」

子ども向けの番組にしては、バリバリの鹿児島弁!時間帯を考えると、トイナモン(鹿児島弁で“お年寄り”のこと)を対象にしているのか?
とばかりも言えず、最近は方言を見直そう、語り継ごう、という動きが全国的にあって、小学校では「方言教育」もひろがっているそうです。

ふりかえってみると、私が小学生だった1960年代は「標準語教育」一色でした。学校も親も方言矯正に躍起になっていたものでした。
何しろ、ほとんどの子どもたちが就職や大学で都会を目指すのが当然、というか「地元には企業も夢もない。出て行ってこそ立身出世よ」という風潮だったから、いずれ都会に出て行く子どもたちが言葉で恥をかかないようにという親心で、「標準語教育」は始められたのだと思います。
しかし、そこには「方言は恥ずかしい」という発想があったわけですから、私なんて大人になっても抜けない言葉の訛りがコンプレックスになったことも否めません。

あの頃は中央集権時代。今は地方分権が声高らかに叫ばれている時代。
時代が変われば教育も変わるわけです。

それはさておき、ご当地キャラってたくさんあるんですねえ。
ヒーロー系だけでも一部挙げると、

かごしまPRサポーター「さくらじまん」。
鹿児島県警「チェストくん」。
ローカル戦隊ヒーローの草分け「離島戦隊タネガシマン」(これは、SMAPと共演しているのを見ました)。
奄美大島からは「ハブレンジャー 」(「琉球戦隊!ハブレンジャー」とキャラがかぶっています)。
地球温暖化防止には「時空機動隊ハヤト」(見たことないなあ)
鹿児島県税務課からは「自動車税をおさめ隊」(プリキュア路線のキャラみたいです。)

などなど19キャラありました。(ウィキペディア「九州地方のローカルヒーロー一覧」参照

そのほか、ゆるキャラ系では「裁判員制度」普及に務める「かちけん君」、WeLove天文館の「てんてん」、枕崎市からは「ブエンマン」、鹿児島県茶生産協会の「茶々丸くん」…..まだまだ他にもあるようですが、greboo私の一押しはなんといっても「グリブー」 !
羽飾り風に葉っぱをあしらった顔に、 きりりとした眉(イモト似!)が印象的。

全国的には1600キャラ以上あるようです。(「ご当地キャラカタログ」参照)。
いやあ、すごい数ですね。「ご当地キャラ、スタンプラリーの旅」とかあったら、全国津々浦々旅ができそうですね。

自由葬でお願いします

昨年末に引き続き、冠婚葬祭についてこだわっています。
「冠婚葬祭」の”冠”と”婚”に関しては、成人式には出席しなかったし結婚式も挙げなかったし、今までもこれからも私個人には関係のないセレモニーです。
今後私に関係してくるのは人生最後のセレモニー、私自身の葬式です。自分の葬式にはこだわってみたい。

「葬式なんてそうこだわるものでもないでしょう。世間並みにしてくれればいい」と考える人には、全くどうだっていい話ですが、私にとっては最後の自己表現、ささやかな抵抗。どうか世間並みにはしないでくれ、と言いたいのです。
黙って死んでいくと、間違いなく世間並みの葬式になっちゃいます。

「世間並みの葬式」とはどういうものか?
現在の日本の場合、90%以上は仏式で執り行われるようです。
今まで私が列席した葬式も、ほとんどは仏式。たまーに神道あり、でした。
「信教の自由」が憲法で謳われているにも関わらず、この国にはこんなにも仏教徒が多いのか!と驚きます。
しかし実態は、

「現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える日本人も多い。これは日本人が神や仏を否定しているわけではなく、何かしらそれなりに信じているが、特定の宗教組織に全人格的に帰属してはいないということである。出典《ウィキペディア/日本の宗教》」

とあるように、たいていの人は「無宗教者」であることを自覚しながらも、「世間的なしきたり」として宗教儀礼を受け入れているのが実情でしょう。

それにしても、何故葬式は仏教なのか?
「冠婚葬祭のひみつ/斎藤美奈子」によると、元来仏教は葬送儀礼を重視する宗教ではなく、葬式は村社会が執り行うことが一般的でしたが、寛永十二年(1635年)頃から、お寺が葬式に関与する傾向が強くなったという。

「すべてのはじまりは、1635(寛永12年)ごろ、江戸幕府がキリシタンの弾圧のためにもうけた寺請制度である。日本人全員を近くの寺に帰属させ、寺には寺請証文(キリシタンでないことを証明する身分証書)を発行し、宗門人別帳(各人の宗旨と檀那寺を記した一戸ごとの住民基礎台帳)に捺印する権限を与える。」

寺請制度以降、僧侶が寺に定住するようになり、自分とこの檀家の葬儀や法事を営むことで定期的な収入を得られるようになり、布教の必要もなくなり、そして

「寺請制度が確立した1700年頃には、位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式には必ず僧侶が関与しなくちゃダメとか、戒名をつけろとか、何年かごとに年忌法要をやれといったルールが設けられた。」

つまり、このころから葬式はビジネスとして育てられてきたのでしょう。

「世間並みの葬式」には、自動的に戒名がついてきます。
戒名は本来、「仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして……多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる/ウィキペディア:戒名」というもの。
しかし葬式さえすれば、故人に生前信仰があろうがなかろうが、戒名が与えられます。これがまた料金によってランク付けがあるという困ったしろもの。
グレードの高い戒名にすると、あの世で何かいいことがあるとでもいうのかしら?
死後の世界も現世同様格差があるってわけだろうか?
人間死んだら皆平等ってわけにはいかないの?
遺族にしてみれば、グレードの低い戒名、つまり安い仏門入門証を購入することは、故人をないがしろにしているような気になったりするし、「戒名は結構です」とも言いにくい雰囲気が、「世間並みの葬式」にはあります。

故人と生活を共にしていた家族であれば、故人が生前「葬式はこういうのがいい」と言っていたことなどを考慮して、精一杯故人の趣向に沿った葬式になるようにしたいと思う。
しかし、葬式に関しては結婚式ほどには好き勝手できない。ことに宗教色の無い葬式(自由葬と呼んだりするらしい)は、まだまだ市民権を得てはいないようです。
「私の葬式には、お線香も玉串も十字架も要らないから。」
と娘に頼んだところ、「それらを全て文書で残して欲しい。できたらFacebookで。」と言われました。
「母の遺言により、このような葬儀スタイルになりました。」と説明しなければ、「こんな葬式をするなんて、なんて親不孝な!」と世間に非難されるのは、残された子供たちだと言うのです。

そんなわけで、自分の葬式にこだわるなら、遺言状を準備した方が良さそうです。いえ、遺言状というとちょっと物々しい。まあ「私の葬式についてのお願い」という程度のことを、今年はFacebookに残しておこうと考えています。