「2023 猫展 平面と立体」の案内状が届きました

2.11(土)-3.6(月)11:00-18:00

休館日:2/15・3/1(水)

於:ギャラリー白樺

「猫展」の案内状が届きました。
しばらく郵便受けを開けていなかったので、ちょっと発見が遅れてしまいました。
郵便受けにはチラシやフリーペーパーがいっぱい溜まっていて、A4サイズの紙の間に挟まって、あうやく見逃すところでした。

今年も猫の日がやってきますね。
59人のアーティストが創り出す多彩な猫たちが楽しめる展覧会です。

「おいしいごはんが食べられますように/高瀬 隼子」もやもやが残ったので読み返してみました

「おいしいご飯がたべられますように」

著者:高瀬 隼子
発行日:2,022年3月
発行:講談社

第167回芥川龍之介賞受賞

どちらかというと普段、文学ジャンルの本は読まないのですが、おもしろいという評判を聞きアマゾンで試し読みをしました。

「一日一粒で全部の栄養と必要なカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。それを飲むだけで健康的に生きられて、食事は嗜好品としてだけ残る。酒や煙草みたいに、食べたい人だけが食べればいいってものになる」
という文章に共感して購入ボタンをクリックしました。

私も子供の頃、ずっと思っていました。ご飯を食べずに生きられたらどんなに楽だろうと。
食事を楽しむことができない子供でした。だから主人公の二谷が、おいしく食べることを世間から押し付けられていると感じる気持ち、私もよく知っている。勝手に同類意識を持って物語を読み進めました。

しかし、なんだろう。この小説。とっても読みやすい文体なのだけど、読むほどにもやもやしてきます。

主要な登場人物は職場の同僚、二谷、芦川さん、押尾さんの男女3人。
二谷と押尾さんの内面や、ふたりが芦川さんのことをどう思っているか、ということは随所に書かれていますが、芦川さんの内面はいっさい書かれていません。
芦川さんは他者の目や口を通して描かれるだけの女性です。それがこの物語にどことなく不穏な居心地の悪さを与えています。

芦川さんは、男性目線と女性目線と仕事と食べることを通して、多様な要素を詰め合わせて作られた女性。芦川さんのことをどう思うかは読む人によってそれぞれですが、彼女の心の内は分からないので、何を考えているのか読者が勝手に推測することになる。そういうところも、もやもやさせられる一因かもしれません。

最初、二谷にも押尾さんにも他の登場人物の誰にもあまり感情移入できず、この職場の空気も嫌だなあと。まあでも現実、職場ってこんなもんだし、何だかイヤな気持ちにさせる物語だなと思いました。
「おいしいごはんが食べられますように」というタイトルだって、食べることが面倒くさいとか思っている二谷にとっては、押しつけがましい呪いの言葉にも聞こえそう。そう思いながら本を閉じました。

だけど、それだけではないような。何か読み落としているような。消化されない感じが残り、後日読み返し、言葉を拾い直したりして考えていくと、登場人物への印象も変わり、そんなイヤな気持ちにさせる物語ではなかったと思えました。
心に刺さる言葉がいくつもあり、さらっと読んで捨ててしまってはもったいない小説だと思いました。

ネタバレになるのであまり具体的なことは書きませんが、
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と言った押尾さん。私は押尾さんへの印象が一番変わりました。悪い方からいい方へ。
そして「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」と言う。このセリフにぐっと来ました。結末を知っているとちょっと悲しく響く言葉ですが、それでも押尾さんには幸せな時間が確かにあったのだと思えて、それはとても良かったなあ、、、と。

人は生きるためには食べなければならない。大方の人は食べるために働かなければならない。
食べる、働く、食べる、働く、、、延々と続くその循環は楽なものじゃないです。
そんな日々の中で、「ごはんが、おいしい」と思えるとしたら、それはきっと幸せなことに違いない。たとえ束の間でも。独りであっても。

まあ、でも、二谷が「芦川さんと食べるごはんは、おいしい」と思う日がいつか来るのかどうか。それは誰にも分からないことだけど。

『いつかたこぶねになる日/小津夜景』たこぶねの母の生き方

「漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日」

  • 著者:小津夜景
      (おずやけい)
  • 発行日:2020年11月
  • 発行:素粒社

著者 小津夜景さんは1973年生まれの俳人。フランスに移り住んで20年余りになるそうです。
本書は著者の日々の暮らしや想いを綴る31編からなるエッセイ。それに日本や中国の詩人たちの漢詩と著者自身によるその翻訳を添えたものです。

南フランスの、海が近くにある暮らし。素朴で繊細でそれでいてタフな生き方が感じられる文章と、歴史の中に眠る詩人たちが詠む漢詩とが不思議と調和するエッセイで、美しさを感じる、丁寧に読みたくなる一冊です。

エッセイの1編目が本の表題にもなっている「いつかたこぶねになる日」です。
たこぶねとは何か?私は全く知らなかったので、鳥羽水族館のYouTubeを見てみました。

タコって大概へんてこりんな形をしている生物ですが、タコブネはさらにへんてこりんで可愛い!
Wikipediaによると

タコブネは、主として海洋の表層で生活する。メスは第一腕から分泌する物質で卵を保護するために殻をつくるのに対し、オスは殻をつくらない。生成される殻はオウムガイやアンモナイトに類似したものであるが、外套膜からではなく特殊化した腕から分泌されるものであるため、これらとは相同ではなく構造も異なる。

成長したメスは、7ないし8センチメートル前後になる。オスはその20分の1ほどの大きさにしかならない。

オスは8本の足のほかに交接腕(「ペニス足」)を有し、交接腕には精嚢が格納されている。交尾は、オスの交接腕がメスの体内に挿入されたのち切断されるかたちでおこなわれ、受精はメスの体内でおこなわれる。メスは貝殻の内側に卵を房状に産みつけ、新鮮な海水を送り込むなどしてこれを保護する。

Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%8D)

たこぶねの生態はかなり独特ですね。メスがオスの20倍の大きさというのも驚きです。人間のサイズに変換して想像すると、結構おぞましい光景です。
それに交尾したあとオスはどうなってしまうの?というところも気になります。そこを詳しく紹介しているダイビングのショップブログを見つけましたので、興味のある方は読んでみてください。

 「交尾後は大事なペニスを切る 誰も知らないタコブネの真実」Trevallies Ocean : https://trevally.jp/2020/01/28/takobune/

タコブネのオスは体長3~4㎜ほどなので、あまり見つけられることがないらしい。そして交尾のあと、おそらくメスに食べられてその一生を終えているらしい。人間目線で見るととても気の毒なオスです。

とは言うものの本書ではメスだけにフォーカスして読んでみます。
著者はアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』を引用して次のように紹介しています。

(たこぶねの)貝は実際は、子供のためのゆりかごであって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。
(略)
半透明で、ギリシャ柱のように美しい溝が幾筋か付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った船も同様に軽くて、未知の海に向かっていつでも出帆することができる。

「いつかたこぶねになる日」p12

このタコブネの母に、著者はご自身の母親の言葉を重ねています。

「未知の世界に漕ぎ出せば、そりゃあ死ぬかもしれないけれど、でも自由を知ることができるのよ、あなたが死んでもおかあさんはがまんするから、遠慮なく好きなところに行きなさい」と幾度となく言われたと言う。

著者の母親世代は、現代以上に女性が自分の好きな道を選択できない不自由な時代だったのだと思うと、母親の言葉に胸が詰まります。そしてタコブネの子供たちも大海原に放り出されるように泳ぎ出て、それからどんな困難が待ち受けていることか、、、、

エッセイを読みながら、私の目の前には深みのある青色の海が広がっていて、美しい殻を脱ぎ捨て身軽になったタコブネの母が、さらに深い海に潜って孤独で自由な生活を始める、という動画が勝手に出来上がっていて、それは私にはとても美しい映像でした。

でも現実は、どうなのだろう?
タコのメスというのは卵が孵ったら死んでしまうものらしいから、タコブネのメスもオスと同じように、子孫を残したところで役目が終わったとばかりに死んでしまうものかもしれません。
それでもタコブネの母は大海原で、短い余生を自由に暮らしていると想像したい。
タコにとっては人間がつくった「自由」という概念など全くどうだっていい話とは思うけど。
人間は生きている限り「自由」を求め続け、ときには命さえ懸ける生き物なのだから。

エッセイの1編目から面白くて、早く次を読みたいという気持ちになりました。
でも、春からまた外に出て働きだしたため、思うように時間が使えなくなり、読み始めて5か月以上経っているのに、まだ全部は読み終わっていません。

昨日は病院の待合室で21番目のエッセイを読みました。
タイトルは「紙ヒコーキの乗り方」。

紙ヒコーキを作って河川敷に飛ばしに行く友人夫婦の話から始まって、紙ヒコーキ愛好家の存在、発砲スチロール紙ヒコーキの原材料のこと、そして芸術家ハリー・スミスが拾った紙ヒコーキをコレクションするのは何故なのか?という疑問に話は飛び、そこからポール・ゴーギャンの有名な作品《我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》に思いが及び、最後は良寛の《僕はどこからきたのか》という漢詩に着地する。

紙ヒコーキから展開する話の広さ・深さに惹きこまれました。

      《僕はどこからきたのか》
                       良寛
僕はどこから来て
どこへ去ってゆくのか
ひとり草庵の窓辺にすわって
じっと静かに思いをめぐらしてみる
思いをめぐらすも始まりはわからず
まして終わりはもっとわからない
いまここだってまたそうで
移ろうすべてはからっぽなのだ
からっぽの中につかのま僕はいて
なおかつ存在によいもわるいもない
ちっぽけな自分をからっぽにゆだね
風の吹くままに生きてゆこう

それにしても、紙ヒコーキを飛ばしに河川敷に出かけてゆく夫婦っていいなあ、って心から思いました。
夫が生きていたら早速提案してみたい遊びです。
物を作ることには手を抜かない性分の人だったからきっと紙ヒコーキとは言え真剣に作って遊んでくれたんじゃないか?って思う、、、今となっては勝手に思うしかできないことだけど。

映画「教育と愛国」観てきました。

昨日、映画『教育と愛国』を観てきました。
久しぶりのガーデンズシネマ。雨にもかかわらず、ほぼ満席でした。

映画「教育と愛国」公式WEBサイト
https://www.mbs.jp/kyoiku-aikoku/

『教育と愛国』予告編

TBSラジオ『アシタノカレッジ』に、監督である斉加尚代さんが出演され、教育問題を取材し続けてきたこと、この映画を撮るにいたった経緯など話されています。
そのお話を聞いて、私も劇場に行きたくなりました。
子育て終わったから今さら教科書の問題なんて関係ない、とは到底言えない、とても大事な国の在り方の問題です。

26:36 【ゲスト:#斉加尚代】 ←ここをクリックすると斉加尚代さんのインタビューコーナーにジャンプします

政治が教育に介入すると、歴史が改ざん、もしくはなかったことにされる。例えば、第2次世界大戦において日本国にはまったく加害的な事例はなかったことにされる。
「美しい国日本」を標榜する政府としては、国の黒歴史は消してしまいたいのでしょうが、歴史を改ざんしていいはずない。

2006年に第一次安倍政権下で教育基本法が改変され、「愛国心」条項が戦後初めて盛り込まれました。すると、「愛国心」のもと、「教科書にパン屋のイラストはふさわしくないから、和菓子屋に変えろ」ってことになったりする。
「愛国心」の使い方、おかしくないですか?
「新しい教科書を作る会」、教職員への日の丸・君が代斉唱の強要、日本学術会議任命拒否問題、「表現の不自由展」、「日本会議」の問題、様々な問題に「愛国心」が絡みついています。

映画の中には、ギョッとさせられるというか意味不明な発言をするエラい人たちが何人も登場します。
伊藤 隆(いとう・たかし)さんもその一人。
東京大学名誉教授の歴史学者であり、「新しい歴史教科書をつくる会」の元理事。
現在「日本教育再生機構」の顧問。「国家基本問題研究所(理事長:櫻井よしこ)」の理事。育鵬社の歴史教科書編集会議座長を務める方です。

斉加尚代さんから「教育の目的は何ですか?」と聞かれて、
「ちゃんんとした日本人をつくることです」と答える。
「ちゃんとした日本人とはどういうことですか?」という問いかけには、
「左翼ではない、ということかな」と応じる。

インパクトありましたよ。このシーン。
世の中の大半の人は右翼でも左翼でもないと思うんですけどね。
おそらくこの方は、自分と考えの合わない人たちを「左翼」と呼んでいるのかもしれませんね。
この方は「歴史に学ぶ必要はない!」という迷言も残している歴史学者ですので、一般人にはなかなか理解しがたいです。

斉加尚代さんは、2012年、当時の橋下徹市長記者会見において橋下徹市長から罵倒され、その後多くのバッシングを受けることになりました。

以下の事案について橋下市長に取材するための記者会見の場です。

2012年3月2日にあった大阪府立和泉高等学校の卒業式で、中原徹校長が教頭らに指示して、約60人の教職員が国歌斉唱時に起立しているかだけでなく、歌っているかについて口の動きを確認した。中原は、大阪市長の橋下徹の友人で、橋下が大阪府知事だったときに民間人校長として就任していた。同年3月9日、大阪府教育委員会は国歌斉唱時に起立しなかった教員のうち17名に対し懲戒処分(戒告)を行った。5月8日、橋下の記者会見で斉加が「一律に歌わせるのはどうか」と尋ねたところ、橋下は「ふざけた取材すんなよ」「勉強不足」「とんちんかん」と斉加を面罵。30分間にわたる言い合いとなり、注目を浴びた。このやりとりは動画で出回り、非難メールが斉加の勤務先に1千件以上届いた。

ウィキペディア斉加尚代」から引用

下の動画は、タイトルの付け方から見て斉加尚代さんをバッシングした側のチャンネルだと思われますが、橋下元市長の言説を検証できるデータとして貴重ですね。
橋下徹さんという方も、まともに議論はできない人だと思われますが、この動画のコメント欄には彼を絶賛するコメントが溢れています。「愛国心」ってこんなところで使われるんだなあと、、、、

『教育と愛国』
2022/6/18(土)~24(金)※21(火)休館
24㈮は斉加尚代監督オンライントーク付(要予約)
ガーデンズシネマにて

余談ですが、

武田砂鉄さんの『ワダアキ考 〜テレビの中のわだかまり〜』が連載されているコンテンツ配信サイト『cakes』が、2022年8月31日をもってサービス終了となります。
私は武田砂鉄さんのコラムを毎回楽しみに読んでいます。といっても無料期間中(1週間)に読むだけで課金することはなかった
なので、廃刊になって残念だと言う資格が私にはないかも。

ああ、可処分所得が増えればなあ、あちこち課金したいんだけどなあ、、、と、ただぼやくだけ。



「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」「さよなら、男社会」 2冊のジェンダー論を読んで

「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」小川たまか 2018年

「さよなら、男社会」
尹 雄大(ゆん うんで) 2020年

「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」
出版社からのコメント

性暴力被害、痴漢犯罪、年齢差別、ジェンダー格差、女性蔑視CM、#metoo運動などを取材し、おもにウェブで発信してきたライター・小川たまかはじめての著作。
2016年から2018年に起きた、性犯罪やそれにまつわる世論、性犯罪刑法改正、ジェンダー炎上案件などを取り上げ、発信してきた記録です。

Amazonの商品の説明から

「さよなら、男社会」内容(「BOOK」データベースより)

僕らはいい加減、都合のいい妄想から目を覚まさなければならない。圧倒的な非対称を生きる僕らは、どうしてその事実に気づけないのか。真に女性と、他者とつながるために、乗り越えねばならない「男性性」の正体とは何か。

Amazonの商品の説明から

たまたまジェンダー論を2冊立て続けに読んで、昭和の時代の記憶がバラバラと蘇ってきた。

中学3年の時、理科の先生(男性)が授業中に、一人の男子生徒を竹箒で何度も何度も殴りつけた。かなり強烈な暴力の光景を思い出す。
現在ならSNSで大炎上案件だと思う。しかし当時、先生が処罰されることはなかったし、なぜ先生がその男子生徒を殴ったのか、理由を知らされることもなかった。

先生が暴力を振るっている間、皆暗く押し黙ったままだった。その教室の重苦しい空気を今も覚えている。「先生やめてください」と言えなかった自分の意気地なさも、悔しくて忘れられない。

漫画やテレビで「スポ根もの」が流行っていた時代だった。
「スポ根もの」といえば、「集団」「厳しい訓練」「根性」「耐え抜き」「やればできる」と煽られ、「できないのは努力が足りないからだ」とパワハラコーチにしごかれ、スランプに陥れば殴り合いの「暴力」が始まり、試合に勝てば男同士抱擁して涙を流す。そんなパターンもあった。
これって軍隊みたいじゃない?ってシラケた視聴者もいただろうと思う。今思うと、いったいどんな世代に受けていたのだろう?と不思議でならない。

「スポ根ドラマ」には女子マネージャーが登場し、道具や飲食を用意したり掃除、洗濯をしたり、時には男子生徒の心の傷を癒したり。男子をサポートしケアする役周り。それはそのまま社会の構図を反映したものだった。

男性は働いて家族を養う経済力が求められ、女性は家事・育児・教育・地域参加・親たちの介護等を担うという、性別による偏った役割分業があった時代だった。

稼ぎの少ない男性は「甲斐性なし」と言われ、女性の賃金が低いのは、男性より能力が劣るからだと決めつけられた。
思い出してみると、いろいろ凄い時代だったなあと思う。いや、まだ過去形になっていないことばかりだけど。

差別用語が書き換えられたからって差別の中身が無くなったわけじゃない。むしろ差別が見えにくくなったかもしれないとも思う。

性別、貧富、能力、容貌、人種、職業、年齢、出自、出身、思想、宗教、などなど、、諸々の偏見・差別・ハラスメントは、学校でも家庭でも会社でも政治でも、あらゆる場所に、今も当たり前のように存在している。(まだ可視化されていないものもあると思う)
全ての人を細かくカテゴリ分けしていくと、誰だってどこかで少数派になるはずなのに、社会的な偏見や差別の対象となってしまう少数派がいるのは本当におかしなことだ。
偏見や差別はないものだという建前から、人はそういう対象の少数派がいること自体をないことにしてしまう。

小川たまかさんの「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」は、このタイトルにとても気持ちを揺さぶられる。”『ほとんどない』ことにされている側”を考えさせる本だ。

尹 雄大(ゆん うんで)さんは、「社会は厳しいのだ 。甘えるな」という物言いが共通言語としてある男社会の中で、子どもの頃から違和感や苛立ちを感じ苦しんできたという。
「さよなら、男社会」では、いったい何故こんな社会があるのか、男性の暴力性はどこから来るのか、などを深く考察している。