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  • 「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」「さよなら、男社会」 2冊のジェンダー論を読んで

    「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」小川たまか 2018年

    「さよなら、男社会」
    尹 雄大(ゆん うんで) 2020年

    「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」
    出版社からのコメント

    性暴力被害、痴漢犯罪、年齢差別、ジェンダー格差、女性蔑視CM、#metoo運動などを取材し、おもにウェブで発信してきたライター・小川たまかはじめての著作。
    2016年から2018年に起きた、性犯罪やそれにまつわる世論、性犯罪刑法改正、ジェンダー炎上案件などを取り上げ、発信してきた記録です。

    Amazonの商品の説明から

    「さよなら、男社会」内容(「BOOK」データベースより)

    僕らはいい加減、都合のいい妄想から目を覚まさなければならない。圧倒的な非対称を生きる僕らは、どうしてその事実に気づけないのか。真に女性と、他者とつながるために、乗り越えねばならない「男性性」の正体とは何か。

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    たまたまジェンダー論を2冊立て続けに読んで、昭和の時代の記憶がバラバラと蘇ってきた。

    中学3年の時、理科の先生(男性)が授業中に、一人の男子生徒を竹箒で何度も何度も殴りつけた。かなり強烈な暴力の光景を思い出す。
    現在ならSNSで大炎上案件だと思う。しかし当時、先生が処罰されることはなかったし、なぜ先生がその男子生徒を殴ったのか、理由を知らされることもなかった。

    先生が暴力を振るっている間、皆暗く押し黙ったままだった。その教室の重苦しい空気を今も覚えている。「先生やめてください」と言えなかった自分の意気地なさも、悔しくて忘れられない。

    漫画やテレビで「スポ根もの」が流行っていた時代だった。
    「スポ根もの」といえば、「集団」「厳しい訓練」「根性」「耐え抜き」「やればできる」と煽られ、「できないのは努力が足りないからだ」とパワハラコーチにしごかれ、スランプに陥れば殴り合いの「暴力」が始まり、試合に勝てば男同士抱擁して涙を流す。そんなパターンもあった。
    これって軍隊みたいじゃない?ってシラケた視聴者もいただろうと思う。今思うと、いったいどんな世代に受けていたのだろう?と不思議でならない。

    「スポ根ドラマ」には女子マネージャーが登場し、道具や飲食を用意したり掃除、洗濯をしたり、時には男子生徒の心の傷を癒したり。男子をサポートしケアする役周り。それはそのまま社会の構図を反映したものだった。

    男性は働いて家族を養う経済力が求められ、女性は家事・育児・教育・地域参加・親たちの介護等を担うという、性別による偏った役割分業があった時代だった。

    稼ぎの少ない男性は「甲斐性なし」と言われ、女性の賃金が低いのは、男性より能力が劣るからだと決めつけられた。
    思い出してみると、いろいろ凄い時代だったなあと思う。いや、まだ過去形になっていないことばかりだけど。

    差別用語が書き換えられたからって差別の中身が無くなったわけじゃない。むしろ差別が見えにくくなったかもしれないとも思う。

    性別、貧富、能力、容貌、人種、職業、年齢、出自、出身、思想、宗教、などなど、、諸々の偏見・差別・ハラスメントは、学校でも家庭でも会社でも政治でも、あらゆる場所に、今も当たり前のように存在している。(まだ可視化されていないものもあると思う)
    全ての人を細かくカテゴリ分けしていくと、誰だってどこかで少数派になるはずなのに、社会的な偏見や差別の対象となってしまう少数派がいるのは本当におかしなことだ。
    偏見や差別はないものだという建前から、人はそういう対象の少数派がいること自体をないことにしてしまう。

    小川たまかさんの「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会の話を。」は、このタイトルにとても気持ちを揺さぶられる。”『ほとんどない』ことにされている側”を考えさせる本だ。

    尹 雄大(ゆん うんで)さんは、「社会は厳しいのだ 。甘えるな」という物言いが共通言語としてある男社会の中で、子どもの頃から違和感や苛立ちを感じ苦しんできたという。
    「さよなら、男社会」では、いったい何故こんな社会があるのか、男性の暴力性はどこから来るのか、などを深く考察している。